悪は何故暴露するか

私は前々号に無神迷信の題名の下に、公務員の汚職問題に就て詳しくかいたから、大体分ったであろうが、要するに其根本は不正をする人の心理である。勿論人の目にさえ触れなければ、どんな悪い事をしても隠し終せるという、所謂無神思想である。そこで今一層徹底してかいてみるが、成程右の考え通り悪が絶対知れずに済むとしたら、斯んな旨い話はないから、出来るだけ悪い事をして、儲けた方が得という事になる。今日悪い事をする人間の殆んどは、そうした考え方であるのは言う迄もない。処がいくら巧妙にやっても、いつかは必ず暴露して了うという此不思議さである。としたら彼等と雖も其処に気が付かない訳はなかろうが、本当の原因がハッキリ分らないが為、悪事を棄て兼ねるというのが偽らざる心情であろう。

そこで私は何故悪事は、必ず暴れるかという其原因を明かにしてみるが、先づ何より肝腎な事は、成程人の目は誤魔化す事が出来ても、自分の目は誤魔化せないという点である。どんなに人に知れないようにしても、自分だけはチャンと知っている以上、自分には暴露されている訳である。そうして一般人の考え方は、自分は社会の一員としての独立の存在であって、別段他には何等の繋りがないから、何事も自分の思った通りにやれば一向差支えはない。だから自分に都合のいい事、利益になる事だけを巧くやればいい、それが当世利巧なやり方であるとしている。従って偶々利他的道義的な話を、先輩や宗教人などから聞かされても、上辺は感心したように見せても、肚の中では何だ馬鹿々々しい、そんな事は意気地なしの世迷言か、迷信屋の空念仏だ位にしか思わないのが実際であろう。全くそういう人間こそ形に囚われ精神的には零でしかないから、人間としての価値も零と言えよう。

右は現代人大部分の考え方を、ありのままかいてみたのであるが、では斯ういう思想の持主が、果して将来幸福であろうかというと、例外なく失敗するのである。

では何故失敗するかというと、前述の如く、悪は人には知れなく共、自分だけは知っているのだから、此点が問題である。何故かというとどんな事でも、人間の肚にあるものは何でも彼んでも、手に取るように分る或恐ろしい処がある。其恐ろしい処とは一体何処かというと、之が霊界にあって現界でいえば検察庁のような処で、所謂閻魔の庁である。処が悲しい哉、唯物思想に固まった人間には信じられないので、偶々人から聞かされても、そんなものはあるもんかと否定し、少しも耳を傾けようとしない、此想念こそ悪の発生源である。此理によって本当に悪を無くすとしたら、之を教え信じさせる事で、之以外効果ある方法は絶対ない事を断言するのである。では閻魔の庁へ何故知れるかというと、人間の魂と其庁とは霊線といって、現界の無線電波のようなものが一人々々に繋がっていて、一分の狂いなく閻魔の庁に記録されて了う。庁には記録係があって、一々帳簿へ載せ、悪事の大小によってそれ相応に罰するので、それが実に巧妙な手段によって暴露させ、現界的刑罰を加えるのであるから此事が肚の底から判ったとしたら、恐ろしくて少しの悪い事も出来ないのである。尤も其反対に善い事をすれば、それ相応な褒美を与えられるという、之が現幽両界の実相であるから、此世界は神が理想的に造られたものである。

之が絶対真理であってみれば、之を信ずる以外、根本的解決法はないのである。処が現代はそういう霊的な事は、政府も有識者も盲目であるから、反って大衆に知らせるのを非文化的とさえ思っているのだから、困ったものである。そんな訳で、折角それを分らせようとする吾々の仕事も、迷信と断じて警戒する位だから、本当からいえば御自分の方が、余ッ程迷信にかかっているのである。其何よりの證拠は、之程骨を折っても、汚職などの犯罪は少しも減らないばかりか、寧ろ増える傾向さえ見えるではないか、それは単に表面に現われた犯罪を膏薬張で防ごうとしているのだから駄目で、容易に抜けられそうな法網を張ったり誰でも破れるやうな取締りの塀で塞ごうとしていて、全然急所が外れているのだから、其愚及ぶべからずといいたい位である。而も之が文化国家と思い、得々としているのだから、余りに幼稚で、現在は文化的野蛮時代といってもよかろう。

(栄光百三十六号 昭和二十六年十二月二十六日)