霊憑りに就て

霊憑りの危険な事は、常に私は注意しているに拘わらず、今以て止めない人があるが、之は断然やめるべきである。それに就て何故悪いかを詳しく説明してみるが、霊憑りの八、九割迄は狐霊であって、狐霊の九割九分迄は邪霊であるから、人を瞞す事など本能的であり、人間に悪い事をさせるのは何共思わない処か、寧ろ面白くて仕様がないのである。という訳で彼等の中でも高級な奴になると、憑依する場合何々神だとか、何々如来、菩薩、龍神などと言い、本人にもそう思わせると共に、人にも信じさせようとするので、御本人もすっかり其気になって了い、生神様扱いにされて多くの人から敬われ、贅沢三昧に耽るのがよくあり、之が狐霊の本性である。そうして狐霊中でも劫(ゴウ)を経た奴になると、相当神通力を有っており、人間に憑依するや其人の思っている事は何でも分るから、それに合わせて色々な企(タク)らみをする。例えば其人が神様のように人から尊敬されたいと思っていると、いつしか憑依して了い、本人の思惑通りに取りかかる。自分は是れ々々の立派な神の再来だとか、最も多いのは天照大御神の御名を僣称する事で、之は誰も知っているが、そうかと思うといとも巧妙に、此人はと思う人には自分との因縁を結びつけようとしたり、多少の奇蹟も見せるので、善男善女は一杯喰って了うのである。之は世間よくある話で、方々にある流行(ハヤリ)神などは皆此類(タグイ)で、勿論斯ういうのは一パシ腕のある狐霊で、世間の甘い人達は遂瞞されて了う。又中には無暗矢鱈に金を欲しがる人があると、それを知る狐霊は憑依するや、悪智慧を働かせて、巧く金を掴めるようにするが、勿論手段を択ばず式で、大抵は罪を犯させ、一時は巧くゆくが結局は失敗して了い、其筋の御厄介になる者さえよくある。又女を得たい人間には巧妙に其女に接近させ、女の関心を得るよう甘い言葉や手段を用い、時には暴力を振う事さえあるのだから危い話である。

其様に元々動物霊であるから、善も悪もない。只人間を道具にして自由自在に躍らせればいいので他愛ないものである。此様に狐の方が人間より一枚上になるから、万物の霊長様も情ない話で、之が分ったなら人間様も余り威張れたものではあるまい。其他狐霊の外狸霊、龍神、悪質天狗等も憑って人間を誑(タブラカ)すが、其中でも邪悪の龍神が最も恐るべきものである。本来龍神なるものは、並々ならぬ強い力と、そうして智慧を有っているから、人間を自由にし場合によっては人に傷害を与えたり、命をとる事など朝飯前である。昨年の事件の時なども、多くの悪龍が活躍した事は以前もかいたが、そういう場合血も涙もない残虐極まるものである。而も狐霊などとは異い、龍神は智能的で、悪智慧が働くから思想的にも人間を自由にする。何々主義などといって悪質犯罪を平気でやらせ、社会に害毒を流すのも原因の多くはそれである。そこへゆくと狸霊や天狗の霊は大した事もないが、只天狗は霊力が強いのと、学問のあるのが多いので、彼等の中の野心家はそういう人間を掴えて躍らせ、世間に名声を博し、出世をさせて大いに威張りたがる。其様な訳で天狗の霊憑りは、昔から禅僧、学者、宗教の創立者などに多く、永続きする者は至って少ないのである。

以上憑霊に関しての色々な事をかいたが、茲で充分知って置かねばならないのは、単に邪神といっても個性的に悪い事をするのではない、其奥に邪神を操っている頭目があって、此奴こそ最も恐るべき存在である。此頭目の力には大抵な神も歯が立たない位である。処が此邪神の頭目は陰に陽に絶えず吾々の仕事を妨害している。特に本教は邪神にとっては一大脅威であるから、彼等の方でも頭目中の頭目が対抗しているので之こそ正邪の大戦いである。

処が茲に注意すべき重要事がある。それは本教信者は自分は御守護が厚いから大丈夫だ、邪神など容易には憑れるものではないと安心している其油断である。此考え方が隙を与える事になり、邪神は得たり畏しと憑依して了う。而も小乗信仰者で熱心であればある程憑り易いから始末が悪い。いつも私は小乗信仰を戒めているのはそういう訳だからである。何しろ邪神が憑るや小乗善に尤もらしい理屈をつけて押し拡げ、巧く瞞すので大抵な人はそれを善と信じ切って一生懸命になるのだが、何しろ根本が間違っている以上、やればやる程結果がよくないから焦りが出る。そうなると人の忠告など耳へも入らず、倍々深味に嵌って了い、二進(ニッチ)も三進(サッチ)もゆかなくなって失敗する人がよくあるが、斯ういう人も早い内目が醒めればいいが、そうでないと何が何だか分らなくなって了い、御蔭を落す事になるから小乗善の如何に恐ろしいかが分るであろう。小乗善は大乗の悪なりと私が常にいうのは茲の事である。又此点一番よく分るのは小乗善の人は必ず常軌を逸する事で、之が奴等の狙い処であるから、何事も常識眼に照して判断すれば間違いないので、全く邪神の苦手は常識であるから、私は常に常識を重んぜよというのである。此例は世間に有りすぎる程有る。よく奇矯な言動を可いとする信仰や、同様の主義思想、神憑り宗教なども其類であって、何れも問題を起し、世間を騒がす事などよく見聞する処である。

そうして右の理は霊的にみてもよく分る。何しろ狐狸等は動物霊であるから、人間より以下である。従って之を拝んでいると四足の居所は地上であるから、人間は地の下になり、霊界では畜生道に堕ちている訳で、霊界の事は一切現界に映るから、其人は地獄に堕ちているのである。世間よく稲荷の信者などは、必ずと言いたい程不幸な運命に陥って了うのは、右の理によるからである。勿論霊憑りもそうであって、動物の入れ物になる以上、ヤハリ畜生道に堕ち、不運な境遇になって了うのである。

併し乍ら同じ狐霊でも、全部が全部悪い訳ではない。稀には好い狐もある。それらは改心した狐であって白狐である。白狐は何れも産土神の下僕となり、神の御用に励(イソ)しんでをり、仲々役に立つものである。というのは狐は霊的には種々な特徴を有ってをり悪もそうだが善の場合も仲々力があり、好い働きをするものである。併し神憑りにも除外例がある。それは祖霊又は正守護神が重要な事を人間に知らす場合、一時的に憑る事がある。之はホンの僅かの時間と必要だけの言葉で、決して余計な事は言わないものである。茲で序だから正か邪かの判別法を教えるが、神様に関係のある正しい言葉には無駄は決してない。物事の急所を簡単明瞭にお知らせなさるものである。故に邪霊であれば必ず余計な事を喋舌りたがるもので、よくあるノベツ幕なし立て続けに喋舌るなどは、狐霊と思えば間違いない。併し斯ういう場合もある。それは正守護神が言葉で知らせようとする場合、狐霊は人間に憑る事も、喋舌る事も巧いので、狐霊を使う事もあるがそういう場合必要以外の事を喋舌り、地金を現わすから大いに注意すべきである。

(栄光百三十三号 昭和二十六年十二月五日)