私はいつもいう通り、常に邪神と闘っているが、此具体的表われとして、私が力の限り悩める人を救い、不幸に沈淪している人を幸福な境遇に導くべく、筆に口に霊的活動に専心努力しているに拘わらず、一方には私の此仕事が癪に障って堪らないらしい人がある。此人達は何とかして私の仕事を妨害し、やっつけてやろうと常に心掛けているようにみえる。それで斯ういう人に限って宗教が嫌いで、特に新宗教となるとテンキリ虫が好かないらしい。だから殆んど感情的、ヒステリック的に神仏だの霊の世界などはあるもんか此地上は空気だけで外には何もないのだ、だから神とか宗教などとぬかす奴は、それを利用して人を瞞し、甘い汁を吸うんだから怪しからん奴等だ、だから大いにやっつけるべしだと思い込んでいるのである。処が其様に思い込ませるのは、実は自分自身の本心ではなく、邪神が憑依してそう思わせるのであるが、唯物主義者はそんな事は全然信じないから、盲目的に一生懸命悪魔の思い通り操られて、善に対抗する訳である。一言にしていえば、之こそ神と悪魔の戦いである。尤も斯ういう事は今始まった事ではない。古くからであって、彼の釈迦に提婆、キリストにサタンというように、二千年以上も前から続いているので、独り私だけの問題ではない。としたら今更兎や角いう程の事もないが、此訳を充分分らせないと、不知不識邪神の虜となり、善いと思ってする事が、実は邪神のお手伝いをする事になるのだから、実に気の毒な人と言うべきである。
邪神は私の邪魔をする以上によってみても、此邪神の智慧も仲々馬鹿にはならないもので、いつも其時代の権力者を狙って憑依し、巧妙な理屈を作っては、其人間の想念を狂わせる。例えば正しい宗教に対しても、アノ宗教は邪教だからやっつけなければいけない。アノ宗教を作った奴は怪しからんから葬って了え、というように実に巧みに瞞し込み、而も非常に執拗である。キリストを十字架にかけたピラトなども其類である。
右の様な訳で、世を救う善の力が強ければ強い程、邪神の方でもそれに相当する強い奴が腕を揮うので、私なども現在邪神界の方から目の敵(カタキ)にされている。彼等は何とか邪魔をしようと苦心惨澹しているが、どんな邪神でも私には憑依出来ない。というのは邪神は何よりも光を恐れるからである。従って信者の中でも誠の強い者に対しては、隙がないからどうしようもないが、アヤフヤな信者となれば、一寸した隙を狙っては憑依し、信仰を落そうとするし、又之から入信しようとする者でも何や彼や妨害して入らせないようにする。之等の事は少し経験のある信者なら、よく分っているであろう。
事件が契機
そういう意味だから、信者以外の第三者なら、邪神は訳なく憑依して自由自在に操るという訳で、それには時の当局者とジャーナリストが一番効果があるので、昨年の事件なども其一つの表われである。そうかといって彼等の行為も、悪意にばかりも取れない事もある。というのは昨年の事件を契機とし、本教団内が大掃除をされ、邪魔をしていた不純分子が一掃され、それ以来頗る明朗になり、堅実な歩みを続けるようになった事で、一時は腹も立ったが、今日は感謝してもいい位である。又其際多くのジャーナリストも手伝って呉れたのだから、之も同じ意味にとってよかろう。
只残念な事には、お蔭話にも沢山ある通り、重難病に苦しみ、命迄も危うくなった際、本教を勧められても、平常から新聞雑誌に出ているデマ記事に迷わされて、躊躇逡巡グズグズしている内に、遂に死んで了う人も少なくない事である。処が其際意を決して縋った人は助かって、こんなに立派な宗教を何で新聞雑誌がアンナに悪くいうのだろう、それに瞞されていたので、余計な苦しみと無駄な金を使わせられたと言って、憤慨する人もよくあるが、全く邪神の計画に乗った為である。斯ういう訳で、折角助かるべき人の命を助からないようにするジャーナリストの行為は、結果から言えば筆の先で、大量殺人を行うようなものである。従って、一人対一人の殺人などは小さなもので、此方がどの位大きな罪悪か分らないのである。私は斯んな嫌な事はかきたくないが、悪質ジャーナリストを矯正させるには、此位徹底しなければ分るまいと思ってかいたので、之も多数の命を救おうとする以上、亦止むを得ないのである。
(栄光百二十九号 昭和二十六年十一月七日)