今日の医学は、赤裸々にいえば、病気の治る医学ではない、治ると思う医学である。否治ると思わせる医学であって、それ以上の何物でもない。成程人間の身体を研究材料として、病気の治る医学を発見しようとして努力はしているが、仲々思うようにならないのが事実である。といって外に考えようもないので、此方法を唯一のものとして噛りついているだけで、之を続けていれば、何時かしら真に病気の治る医学が進歩するだろうとの予想で、全世界何十万の専門家が、研究室に閉篭り、前述の如く人間をはじめ、二十日鼠やモルモットを研究材料にしているのである。
そうして少し重い病気になると、矢鱈に入院させようとするが、入院すれば治りますか、と質くと、それは請合えない、マァー此病状では入院するより方法がないからだという。然し此言葉をよく考えてみると、治る見込がないとすれば、先ず研究材料にする目的より外にない事は分り切った話である。つまり、多額の入院料を出して研究材料にされ、生命迄も捧げて悔ないのであるから、実に奇特な話である。之に就て左記の話はよく似ているからかいてみよう。
彼の二十年八月十四日終戦前日の事である。天皇陛下に於かれては、当時の陸相阿南氏を御呼びになり『お前は此戦争は勝つと思うか』と御訊きになると、陸相は『イヤ勝つ見込はありません』という。陛下は『では勝つ見込のない戦争なら、止めたらいいじゃないか』と仰せられると、陸相『イヤ止める訳には参りません』というので、陛下は呆れ給い『よし退れ』と仰せられたそうである。処が翌十五日、アノようになったので、其夜中陸相は自刃(ジジン)されたのは皆知っている通りであるが、勿論原因は右の理由である事は想像される。恰度右と同様、入院に際しての医師の言葉がそうであろう。只違う処は、請合えないが入院しろとの言葉を聞いて、変だとは思い乍らも入院する人が多いのは、全く諦めの為であろう。又もっと酷いのになると、医師が其病気は手術しても、治るか治らないか判らない、と言うに拘わらず、患者の方で、是非手術をして呉れといって、無理に入院手術して貰う者もあるが、無論駄目に決っている。何しろ医師が請合ってさえ駄目なのが多いのだからである。又手術を受ける場合必ず万一の事があっても、否やはいわぬという證書を出すが之も危ない話で、つまり一か八かの冒険である。右によってみても、手術は考うべきものであろう。
以上によって、現在の医学がまだ信頼出来る程に進歩していない事が判るであろう。処がいつもいう通り、吾々の方は些かの危険もなく、十中八九は治ると思って間違いないのであるから、有りのままをかいたのである。処が世の中の知らない人は、本教の宗教医学をインチキ迷信だなどと片付けて、大切な命を棒にふる人が多いのだから何と言っていいか言葉はないのである。
(栄光百二十八号 昭和二十六年十月三十一日)