現代社会に於ては、法律と刑罰によって犯罪者を取締り、再び繰返えさないようにする事を建前としているが、宗教を全然度外するとしたら、之より外に方法はあるまいから止むを得ないとしても、さらばといってそれだけでは、目的達成は不可能である事も、事実がよく證明している。成程単に犯罪と言っても、それは表面に現われた結果でしかないので、其根本である心の動機にメスを入れなければならないのである。つまり罪を犯そうとする其意志であり、魂であるから、法的犯罪防止の外に、他の方法によって犯罪動機を根絶しなければ、何時になっても犯罪者なき社会は、実現されないのである。
右の如くであるから、現在悪人は只法に引っ掛らないようにする事のみに苦心している。それが独り下級の人間や無頼の徒のみではない、相当教育ある者や、中流以上の人間であってもそうである。只法の網に引っ掛りさえしなければいいとして、不正不義を平気で行っている。としたら此考え方こそ全く恐るべきものであって、之を何とかしなければならないが、之に就て私の経験上から、それらに関した事をかいてみようと思うのである。
私は数十年来、今日迄随分多くの裁判をして来た。今も数件裁判中のものもある位だが、私の相手になる人間は、悉く悪であるから、私の主義として、悪には負けられない以上、どこ迄もやり通すので、今迄一度も負けた事はない。そんな訳で幾多の経験によって分った事だが、彼等は例外なく法律の技術面のみを主にして挑んで来る。処が私の方は法律精神を旨として相手になるので、大抵は一審では負けるが、二審後になると必ず勝つのである。そうでなければ先方から屈伏して示談を申込んで来る。然し困る事には、裁判官によっては、此技術面に重きを置く人が多く、斯ういう人は、若い経験の浅い人にあるようだが、それに引換え精神面の方は、老巧な人に多いようである。
茲で検察当局者に、大いに考えて貰いたい事は技術面を主とするとしたら、どうしても巧妙に法を潜る事のみ考えるから、犯罪は減らないのである。之に反し精神を主にすれば、法律技術は第二となるから、精神面を重視する事になるので、自然罪を犯さない方が有利である事に気が付くとしたら之こそ法律の真の目的に叶う訳であるから、社会悪は当然減る事になろう。敢て此一文を当局者に提供するのである。
(栄光百二十二号 昭和二十六年九月十九日)