私は以前某所で、山岡鉄舟先生筆の額を観て感心した事がある。それは最初に程という字が大きくかいてあり、其次に小さく“人間万事此一字にあり”とあった。之は今以って忘れられない程私の心に滲みついている。というのは、私は今日迄何十年の間、何かにつけて此額の字を思い出し、非常に役に立っているのである。
昔からよい格言も随分あるが、之程感銘に値いする文字はないようだ。たった一字の意味であるが、何と素晴しい力ではないかと思う。従而此程の字を標準にして、世の中の色々な事をみると、何にでも実によく当嵌る。例えて言えばやり方が足りないとか、やりすぎるとかいう事や、右に偏ったり、左に偏ったりする思想、金があると威張り、ないと萎びたりするというように、どうも片寄りたがる。多くの場合それが失敗の原因になるようだ。彼の論語に中庸を得よとの戒めもそれであろう。昔から程々にせよとか、程がいいとか、程を守れという言葉もそれであって、つまり分相応の意味でもある。
之に就て、信仰的に解釈してみると、いつもいう通り、本教は経と緯、即ち小乗と大乗を結べば其真ン中が伊都能売の働きとなるというので、之も詮じ詰めれば程の意味である。従而人間は第一に程を守る事で、程さえ守っていれば、凡べてはスラスラとうまく行くに決っている。嗚呼程なる哉、程なる哉である。
(栄光百十六号 昭和二十六年八月八日)