此現当利益といふ事を、低級信仰として解釈する多くの人があるが、それは大いに誤ってゐる。其点を述べてみやふ。
世に、現当利益が、心から嫌ひだといふ人は、実は一人もあるまい、如(モ)し、有るとしたら、其人は狂人である。病気が治るのは、嫌ひだといふ人はあるまい。金が欲しくないと拒絶する人も、一人もあるまい。俺は、不幸が好きで、幸福は真平だと逃げる人は、恐らく此娑婆には、絶対に無い事を保證する。
宗教界に於て、錚々たる人達が、口を開けば現当利益は低級である。須(スベカ)らく、病気や不幸に超越して、心の安心立命を得るのが、真の信仰であると言ふのである。私は言ふ、病気で悩み、不幸災厄に囲まれ乍ら尚安心立命の出来る人が、世に有るとしたら、恐らく、六千万人中十人とはあるまい。そんな理論だけの信仰で以て、大衆を救える筈は、断じてない。大衆の救えない、一部少数の人より、救えない宗教であるならば、それは、無用の存在でしかない。
現当利益を不可とする宗教は、実は、現当利益を与へる丈けの、力即ち奇蹟が無い為の詭弁(キベン)である。夫は、其宗教に最早、生命が無くなってゐる證拠である。そういふ宗教に限って、社会事業に依って、漸く、其存在を、理由づけてゐる有様である。如何なる宗教と雖も、その創めは、相当の現当利益が有ったであらふ事は、史実も物語ってゐるし、又そうでなかったなら、其時已に滅びてゐる筈である。では何故に、開教時と異って今日は、其力が無くなったかといふと、其真相は斯うなのだ。何れの開祖も真面目で、真剣で、神仏の代行者として恥しからぬ人達ではあったが、惜い哉、世は夜の時代であったが為、年を経るに従い、邪神の為に、力をそがれて終った為であって、遂に、今日見る如き生命の無い状態となったのである。
又現世に於ての悩みは、免れ得られないが、未来は天国浄土に救はれると言ふのが、彼等の説き方である。之も可笑しな話である。現在を救えないものが、何で未来を救ふ事が出来ようか、未来といふものは、死んでから先の、幽界であるから、万一、天国浄土へ行けなかったとしても、幽冥所を異にしては、苦情も持って来られないから、洵に説く方にとっては、安全至極の説き方である。
本来、現幽は一致してゐるのが実相である。彼等は、そんな事には無智である。
で、幽界は、現界の延長であるから、現界に於て、無病息災にして、幸福の生涯を終った者は、其儘、極楽浄土へ行くのであるが、病患で苦しみつつ死んだ者は、其苦しみが其まま、継続するのであるから、無論、地獄界へ行くのである。病気や其他の不幸で苦しみつつも、教誨師などの言(コトバ)を信じて天国へ救はれると、思ひ込んで居る人がよく在るが、実に可哀相な者である。顕幽神(ケンユウシン)三界の実相を、知らない宗教家が、独断的に言ふ説こそは、実に危険千万であって、其罪は、軽からぬ事である。
併も釈尊にしろ、キリストや日蓮にしろ明確に、天国、極楽、地獄の真相を開示して居るに係はらず末世の僧侶牧師が、否定するに於ては、其開祖に対して不徳の罪の大なるものである。
(観音運動 昭和十年九月十五日)