私は最近、怒りを和げる方法を神様から教えられたので、今其福音を伝えようと思う。凡そ人間此世に生きている間、何が一番苦しいかといって憤怒に越したものはあるまい。稀には怒らない人もあるにはあるが、之は倖せのようでも、実は一種の変質者である。先ず一般人としては、怒らない者は殆んどないと云ってよかろう。昔から淘宮術や其他の修養法によって、怒りを克服する方法もあるにはあるが、真に効果のあるものは殆んど見当らない。然し乍ら怒りを只抑えるだけとしたら、怒りの苦しみは免れるとしても、新たに抑える苦しみが生れるから、何にもならない。怒りの苦しみが大きければ大きい程、抑える苦しみもそれにつれるからで、差引二一天作の五である。処が、今度私が神から教えられた方法は、怒りの感情を楽に消す事が出来る。何と素晴しいではなかろうか、今それをかいてみよう。
抑々、人体の中央にある鳩尾は、昔から中腑と言われる程重要な部分である。よく臍が中心というが、之は腹部の中心であって、勇気とか胆力とか、決断力というような意志の中心である。よく肚が出来ているとか、太っ肚だとか、肚が据っているとかいうのは、其意味である。然し私が常に言う、前頭部は智慧、記憶等の理性を掌り、後頭部は喜怒哀楽等の感情を掌り、肚は右の如くであるとしたら、此三位一体的総合された結晶が、前述の如く人体の中腑である以上、怒りの場合もやはり此部へ想念が集中するのである。何よりも怒った時、鳩尾部に何か結ばれた塊りのようなものが感じられる。之は誰しも経験する処で、又腹が立つという言葉も腹にある棒が立って棒の頭が鳩尾に当る訳である。それは兎に角、腹の立った際鳩尾部を浄霊すると、間もなく塊りが溶け結んだ紐がほどけるような胸がひらけて何とも言えないいい気持となり、段々心が軽くなって、怒った事が恥しいようになるものである。よく怒りが解けるというが、其通りである。而も浄霊なるものは、自分でも人でもどちらも治せるから、之程結構な事はあるまい。言う迄もなく個人は元より一家の平和、人との和合大にしては社会や国際間の平和が破られるのも、怒りが原因であるから、実に大きな救というべきであろう。
(栄光百六号 昭和二十六年五月三十日)