現代医学論

此文をかくに当って、前以て断っておきたい事は、医学論と言っても、決して実際から遊離したドグマ的のものではない。何処迄も事実を根拠としてかくのであるから、そのつもりで読まれたいのである。とはいうものの、此論文を見る第三者としては、余りに想像もつかない程の、驚異的理論なので、其儘受入れる事は到底出来ないであろう。

そうして全文を通じて、現代医学が如何に誤っているかを、徹底的に剔出したのであるから、一般人は固より、専門家に至っても余りに驚異的で、信ずる処ではあるまい。故に医学の進歩を謳歌している現在、此様な論をなすものは、狂人でない限り、世界中何処を探しても先ずあるまい。然し乍ら事実は飽く迄事実である以上、発表しない訳にはゆかないのである。何となれば何れは世界人類悉くが、知る時が来るのは間違いないからである。又私は此素晴しい福音を発見したという事は、重大な意味がなくてはならない。全く神の恩恵でなくして何であろう。そうして一日でも早ければ早い程、それだけ人類の不幸は軽減されるのである。

以上の意味によって、専門家諸君が心から理解のゆく迄は、一個の新しい学説として、参考とされたいのである。又此事に就て私は、目下文明の創造なる題名の下に、一大論文を執筆中で、完成の上は全世界の学界は固より、ノーベル賞審査委員会にも提出するつもりである。恐らく世界の医学界に対する原子爆弾であろう。之によって真の医学の確立となる事は、断言して憚らないのである。此著は一言にしていえば、終末期に際し、医学の真理を神が開示されたと思えばいいのである。

偖て、愈々本文に取掛るが、先ず、之から説く処の私の説であるが、之を読む前に今迄の既成観念を悉く払拭し、白紙となって読まれたいのである。些かでも既成観念があるとそれが邪魔となり、反感が起ったりして、肯き難い事になるからである。そこで先ず結論から先にいえば、現代医学の病気を治そうとする其手段方法が、実は病気を作る方法になる事である。昔から医は仁術と言い、洵に聖なる業としていたものが、実は其反対の結果を招来するとしたら人類にとって之程重大問題はあるまい。

処で、抑々病気とは何ぞやというと、神示によれば、人間が先天的及び後天的に保有せる毒素の、自然排除作用による苦痛を名付けたのである。処が、之に気が付かなかった人類は、之と反対の解釈をしたのが既成医学の観念である。従って医療を施せば施す程反対の結果となり、病状は益々悪化するのである。此理によって病気に罹っても、放置しておけば毒素は順調に排除されるから、病は速かに治り、健康は増進するので、之が真理であるから、此理に反した療法によって、苦しんで来た文化民族の盲点は、何と評していいか言葉はないのである。何よりも本教刊行の機関紙に、現在一カ月百人から二百人に上る実例報告を載せているにみて、之以上確実な證拠はあるまい。従って私は此実例を根拠としての所論であるから、一点の誤りはないのである。そうして人間一度病気に罹るや、誰しも先ず医師に掛かるが、簡単に治るものと容易に治らないものとが出来る。勿論、何れにせよ、全治とか根治とかは殆んどないと言っていい。例えば寒冒に罹るとすると一旦治っても時を経て必ず再発する。恐らく寒冒のような軽いものでさえ、治り切りにはならないばかりか、寧ろ再発する毎に漸次悪化の度を加え、不幸な人は初期結核に迄発展するのである。近来の如き結核の激増がそれをよく物語っている。

そうして一番厄介なのは、寒冒が拗れる場合である。これしきの病気でグズグズしているなんて、馬鹿々々しいと焦りが出るが、之が非常に悪い。何となれば焦る程薬を余計に用いたり、間違った手当をするからである。そこで之は医者が下手だと思い医者や病院を取換えるが、事実は変えれば換える程、悪化の度を増すばかりである。遂に医療では到底治らないと諦め、漢方や民間療法、信仰療法等々、いいという療法は残らず試みるが、大同小異で、本当に治るものは一つもないという訳で、最後のギリギリになって、漸く本教へ救いを求めに来るのが、一般患者の御定法である。すると今迄の凡ゆる療法とは余りに異いすぎる。事実本当に治ってゆく。薬も機械も使わない、身体に手も触れないでドンドン治るので実に不思議だ。解らない。然し判らなくても治ればいい。助かりさえすりゃそれでいいのだ。嗚呼、やっと探し求めたものが見付かったのだという感謝感激は、お蔭話欄に満載されており、其様な経路で救われる人々は、日に月に漸増しつつあるのである。

右は、救われた経路をありのままかいたのであるが、然らば医療が何故予想と反対の結果になるかというと、言う迄もなく薬剤が其主なるものである。元来薬なるものは一つもない。全部毒であって、之は医学でも大体認められている。つまり毒の力を借りて、一時的苦痛を押えるのである。処が実際は苦痛を緩和する事と、病を治す事とは根本的に異うのである。それを知らない医学は、苦痛が減るのを病が治るものと錯覚し、苦痛を減らす事のみに専念し、研究を続けて来たのである。だから苦痛を減らす方法は、益々進歩するが肝腎な病の方は治らないままである。此原理を私は発見したのである。処が厄介な事には其薬毒が残存して、それが又病源となる。というのは其薬毒の排除作用が病気だからである。何よりも少し病気が長引くと、余病が発るのみか、それが段々増えてゆき、遂には五つにも六つにもなって、どうにもならなくなるという実例をよく見受けるのである。斯うなると患者の苦しみは大変なもので、結局生命を失うという結果になる。之等の点を既成観念に囚われる事なく、冷静に検討してみる時、最初の病気が治らない内に余病が発るとは理屈に合わない話ではないか、本当に治るものなら最初の病気が段々軽くなるから、余病など発る訳はあるまい。斯んな判り切った事に気が付かないのは全く既成観念の虜となり、盲目となっているからである。何よりも事実がよく示している。見よ現代人の多病なる、どんな人でも、一つや二つの病を有っていない人はあるまい。又結核や伝染病に罹り易いのと神経衰弱等の人間が益々増えるにみても、明かである。今は故人となった当時の名医入沢達吉博士の著書の中に、斯ういう事が出ていた。それは「医学がなくなれば、それに伴って病人もなくなるであろう」との一節で、大いに玩味すべき言葉であろう。

今一つ、世人の余り気が付かない例を挙げてみるが、前述の如く病気が余りに治らない結果、何等かの信仰によって治そうとする。処がどんな信仰でも、必ず薬だけは用いさせないもので、今迄薬毒に浸っていた者も、一度廃めると共に、精神も手伝って幾分快方に向う。すると宗教家は御利益でよくなったといい、患者もそう信じ、有難いと思って其信者となる。という訳であるから結果からみて、医療が新宗教を発展させるという事になる。論より證拠、雨後の筍のように出来る新宗教が、兎も角命脈を保っているのは此為でもあろう。

そうして今迄述べた説に従って、お蔭話を読んでみるがいい。私のいう事と現実と些かの喰い違いもない事である。従って此事が、徹底的に医学界に認識されるとしたら、如何に大多数の人間が救われるかを想う時、凝乎としては居れないのである。

(栄光百五号 昭和二十六年五月二十三日)