ダグラス・マッカーサー元帥、今回の解任に就ては、各新聞挙って其論評をかいたが、どれをみても肝腎な事が抜けているから、私はかかない訳にはゆかないので、茲にかく事にした。
之は今更言う迄もないが、マ元帥帰国に際し、元帥を敬慕の余り、歓送に集い寄る日本人の心情は、誰もが同じであろう。恐らく今迄に此様に国民挙って、心から敬愛した人は日本人中にさえ例をみないであろう。全く、不思議な人である。私としても嘗てない気持が湧き起った。それは今回の元帥解任の報を聴くや驚くと共に、目頭が熱くなるのを、どうする事も出来なかった。今迄にこんな例はない。丸で親兄弟か、教えの師にでも別れるような、心(ウラ)寂しい感がしたのである。
処で、此不思議な感情は、何が故に湧くのであろうかを考えてみた。之が是非私の言いたい点である。即ち元帥程の大きな愛と、正義感の強い人は滅多にないからである。而も身は軍人であり乍ら、其優しさと奥床しさは、人を魅了せずにはおかない。言わば古武士の如き床しさもあれば、英雄ぶるような臭味は少しもなく、如何にも自由平等的である。斯う並べ立てればキリがないが、そういういい面は何が原因かというと、全く信仰から生れた正義感の表われであろう。というのは元帥は熱烈なクリスチャンである事で、時々出すメッセージの中にも、神という文字がよくそれを物語っている。
そんな訳で、元帥が日本にもう居らないと思うと、何かしら心寂しいものに襲われる。頼るものがなくなったような寂しさだ。というのは元帥の正を踏んで恐れずという、アノ固い正義感からであろう。アメリカの利益のみを考えないで、日本を敗戦国と見做さない人類愛的、公平な扱い振りであるからである。終戦後日本へ上陸された第一声の中にも、其事をよくうたわれていた。
茲で、飜って考えてみると、日本の政治家である。相当偉い人もあるにはあるが、何よりも一番欠けている点は、宗教心と正義感と公平とであろう。特に公平が見られない。どうも国民の利害よりも、自党の利害を先にする嫌いがある。というのは政策の善いとか悪いとかは二の次で、反対党の言う事は是非善悪を問わず、何でも彼んでも反対するという狭量さである。之が現在最も政界の弊害であると思う。だから元帥の遺された業績を紀念として、此際日本の政治家も、断乎自覚されん事を望むや切なりで、敢て苦言を提する次第である。
(栄光百二号 昭和二十六年五月二日)