左記の人は、まだ自然農法に徹底していないからで、斯ういう見方の人は非常に多いと思うから、一寸注意しておこう。最初の十五俵という多収穫は、堆肥を多くしたからというが之は逆である。堆肥が余り多いと、土の成育力を妨害するから、反って不作になる。此見方もまだ肥料迷信が残っているからである。又青田の頃見たままで良否を決めるのは早計である。要は収穫を見て批判すべきである。次に失敗した過程などというが、自然農法に失敗は決してない。もし失敗があったとすれば、それは今迄の肥毒が残っている為である。要するに土自体が、肥料の塊りであるという事が判ればいいのである。
自然農法寸考
愛知県F・K
自然農法普及に当って、之を布教の側に立っている面より感じた二、三を書いてみようと思います。
人間の気持として物をヒイキ目に見たがるのは自然の成行ですが此一見陥り易い過失が、案外普及の妨害となっている事であります。世間一般の人は、此方の一番悪いものと彼等の一番よいものを比較しようとする。それは之新形式の栽培法に対してそれを何とかして認めたくないという、因襲的な気持からでありましょう。又此方としては何か成果発表の場合、それと気付かず疎漏の愚を犯している事であります、従而此際大切な事は、一般の人々はどの様に考える傾向があるかと言うその傾向を、一応は認識してかかる事が必要であると思います、例えば、段当一五俵と言う発表に対してそれを実際によく調査して見ますと、ほんの数坪の土地に堆肥を思う存分施して作り、その収穫を拡大して段収に見積って一五俵と言う事がありますと、それを向うから見た場合「そんな狭い地域ならば誰でも出来る、試験場の記録はもっと成績をあげている」と言うでありましょう。
先日数十人の会員の方と自然栽培実習地を見学に参りました、自然農法の田の右隣りは有肥田で被害甚大見るも哀れなものです、そして又左隣りは有肥田であり乍ら、差程被害を受けて居りません、処が殆んどの人が自然に右の方へ集り悪田と比較して自然農法の礼讃をはじめました、之を見た一人の会員が 「貴方々は駄目だ、 悪いのと比較しても何にもならぬ、よい方と見比べなければ」と叫びましたので我にかえり、左の良田との比較をはじめたと言う事があります。
此一見人情よりすれば、当然と許容さるべき点も、実は反って逆効果を来し、反対に非難して遠ざかる材料を与える事となり、普及を妨げる結果となりましょう、正確に観察し、発表する、 之が大切であると思います。
次は研究態度の問題であります、稲作の場合に例をとりますと、段当八俵で隣接の有肥田より品質も凡てに於いて良好である事を強調致します、処が其際、裏作の麦の研究が足りないと「田の方は余り肥料をやらなくても出来るが、そのやり方では裏作の麦は出来ないでしょう、麦は特別に肥料が要るから」と言うでありましょう、実際から言っても麦の裏作の場合、自然農法が稔るまでに有肥に比して長期間を要する点から之を飲込んで居らぬ場合相当不成績に終り、とんだ非難を受けると同時に、 実施者自身外部よりの圧迫等によって熱意を失って了う事があります、只なんでもやりさえすればよい、必ず増収しますと宣伝して、田の裏作より始め、実に思わぬ失敗に終っている処を散見するのであります、茲で、明主様の御言葉を今一度反省する必要があります「自然農法に失敗は絶対にない。うまくゆかぬ場合は
(一)自然農法になっていない事、(堆肥に厩肥を使ったり、播種の時期が遅きに過ぎたり、其他)(二)肥毒の為の浄化以外にない」この(二)の点は当然受くべきもので不可避ですが、(一)の点は十分飲込んで研究の余地があると思います、所期の成果が上らなかった場合、何か自分の信仰に対する妙な気持から、その貴重な失敗を活かさず、ひた隠しにかくす事があります、これでは結果から言って、自然農法に対する疑念を残すのみで、何にもなりません、信仰は出来るだけ疑えと申されている事から考えましても、此失敗をこそ正しい目で見、堂々と取組んで自然農法を理解し、その土地と事情に応じて適切な方法を生み出してゆく事こそ、新しい道を拓いて行く者の正しい研究態度ではないかと思います、 又発表して戴く場合も、 成功したと言う簡単な結果報告よりも寧ろ、失敗とそれに対する検討、又克服した過程を聞きたいと言う要望が多い様に思います、之こそ現在実施している者にとって、又之から実施に移らんとする人々にとって、其の導きの杖となり、無駄を省き、順調な普及が出来る事と思います。
救世教からの通牒にもあります通り、隣接地の同種による同等級田との比較発表と、併せて耕作者の見解意見を添えて戴き度いと思うのであります。
(栄九十七号 昭和二十六年三月二十八日)