阿呆文学(八) 結核なんか屁でもない

此題を見た御仁は阿呆の奴、チト頭がどうかしたんじゃないかと仰言るだろうが、全くそうかも知れないよ、拙者もチト変なような気がするんだからね。何しろあんまり此娑婆は、盲聾が多過ぎるので、一人々々玄翁(ゲンノウ)で頭の天辺(テッペン)をガンと喰らわしてやりたいんだが、それじゃギューッと参って了うだろうから、折角助けてやろうと思って、殺して了ったんじゃ何にもならないから止すとして茲でつくづく世の中を見て見ると、アチラでもコチラでも、結核、結核と言って、丸で尻ッペタに疥癬でも出来たような騒ぎだ。という訳で、役人やお医者さん達、青息吐息の有様は、情ないのを通り越して、涙も出ない此阿呆、マァー目を開けて御覧じろ、血気旺んな若者が、結核という烙印を捺されたが最後、サァー大変、青菜に塩の萎れよう、フラリフラリとさながらに、地獄からでも出て来たよう、幽霊同様の青瓢箪、朝から晩迄ゴホンゴホンの出通しで、体温計と首ッ引き、天井の節穴数えるだけが日課なりという次第、丸で作りつけの人形か、石地蔵が道端へ、倒れたような格好で、手足一つも動かさず只動くのは目の玉ばかりという始末、それで何年も続けるのだから堪らない。処がそんなに苦しんでも、治るんならまだしもだが、何時になったら治るやら、見当さえもつかないので、親爺の貯金やお袋の臍繰さえも減り放題、先ず治るのは百人に、一人か二人も難しい。揚句の果は此娑婆を、おさらばと来てからに、金ピカづくめの御立派な、車で運ばれ、いとも丁寧に、墓場の下へ理想的、絶対安静と来るんだから、何とマァー人間様も哀れ儚ない代物と、いうより外に言いようが御座んすまい。

処が此方様と来ちゃ、ヘン結核なんか屁でもない。高い薬なんかも要らない処か、首の抜けかかった人形のように、学理学理とそんなものに用はない。考えてもみるがいい、元々神様お造りになった人間なんだから、傷物になったなら、早速神様にお頼み申したら、治して呉れるのは当り前、朝飯前にチョックラチョイト、目にも見えない臭いもしない、屁よりもましな神力とやらを、掌からチョイト出しゃ、ズンズン治るという次第、テモサテモ摩訶不思議な大魔術、その芸当を目の前に見てもボンクラは、こりゃ大変と驚くばかり、其昔丁髷連が恐がった、切支丹バテレンを、今時見ると同様で、ビックリシャックリ目の繰玉が、デングリ返えるという訳で、病気の治るのが恐ろしいのかと、思う位の馬鹿らしさ。世も末なるかなと溜息を、つくづく厄介な世の中に、此方の世界じゃ体はピンピン、懐ポカポカ、嬉し々々の毎日を、送っているという訳で、ヘン、ドンナモンジャイと言いたいが、人の難儀はヘイチャラで、御自分ばかりよけりゃよいという、そんじょそこらのヘナチョコ野郎と同様になったら大変、肝腎要の神様が、御承知はなさらぬは知れた事、そこでコチトラ汗だくで、盲の目の玉オッ開き、聾の耳の穴カッポジリ、ガンガン早鐘鳴らしては、知らせてやるのじゃ判ったか。何しろ先祖代々から、誰方も見た事聞いた事もない、天国とやらの素晴しい、夢の世界を作るのだから、尻メドの小さい奴は吃驚仰天逆さになってヌタクリ眩暈フンノビのテンヤワンヤの大騒ぎする世の中に之は又、有難いでは御座らぬか。斯んな結構な仕事をば、一人占めとは勿体ない、多くの盲の手を引いて、助けにゃおかぬと張り切って、ヒョロヒョロしている餓鬼道から、亡者のようなガタガタ共を、メシヤ教の飯をウンと食わせ、力をつけて助けてやる。そんなにまでもしてやって、ビタ一文要らないという太ッ肚、無銭飲食大歓迎という大メシヤ、サァーイラッシャイイラッシャイ、などと阿呆の世迷言、聞かしてやったら皆の衆、有難涙を零すだろう。

(栄九十七号 昭和二十六年三月二十八日)