仏教では、娑婆即寂光之浄土と言ふ、此寂光と謂ふ事を有難がってゐるが、之は大に間違ってゐる。何故なれば、寂光とは寂しい光りである。それは、月の光りを指したのである。斯一事を以てみても、仏教時代は夜の世界であった事が判る。故に、陽光の浄土とか、明光の浄土とか言ふのが、本当の明かるい世界の事である。
昔から、東方観世音菩薩と言ひ、西方阿弥陀如来と言った。観音は、東方の国、即日本から顕はれる謎である、又、東方の光の言葉がある。之も同じく日本から、光が顕はれると言ふ予言である。東から顕はれる光は 勿論、太陽である。是等一々を考え合せた丈でも、観音と東方の光は、日本から出なくてはならない宿命である事が分らう。
大太陽が、一度出づるや、月は光を失ひ星は光を潜むるのは当然の天体物質現象である。此天体現象に由って想像して見ても、今後に於ける事象を判断し得らるる筈である。
法華経は、一天四海妙法に帰すと言ってゐる。妙の字は、実は、明の字を秘めてあるのである。それは、観音が未だ現はれてゐなかったからである。
故に、此意味は、一天四海、日月神たる、観音の教に帰すると言ふ事である。即ち、之に由って万教は帰一するといふ予言である。
皇太子殿下 満御一年の、御誕生日たる昭和九年十二月廿三日の良き日に、第一号を発行した、「東方之光」といふ、本会の新聞が、全く偶然でない事を知るであらふ。
(観音運動 昭和十年九月十五日)