私は此著の完結に当って総結論をかいてみる。読者は私の研究の成果に対し、最早充分の理解と認識とを得られたであらう。そうして将来、来るべき文化の根本理念は勿論霊的のそれでなくてはならないが、実は今日迄の文化の推移を仔細(シサイ)に検討する時、それは明かに霊的方面に一歩々々前進しつつある事実を看取さるるのである。
最近に於ける無線科学の進歩は、電波、光波、音波等の躍進となり、今現に各国とも盛んに応用されつつ、戦力にまで至大関係を持つに至ってゐる。然し乍ら私の解釈によれば右は霊科学に於ける体の面である事である。即ち霊に於ても、その霊と体との二面があって、人間の五感によって知り得る範囲は、霊の体の面に属するのである。然るに私の今爰に述べんとする所のものは霊の霊であって、五感に触るる能はざるもの、即ち見えざる光、無声の声、捉へる事の出来ない電波である。
右の如く無にして無に非ざる存在、私は仮に名付けて霊電波又は幽幻力といはふ。この幽幻力に於ての原素の活動こそ、凡ゆる力の本源であって、その中心としての主動力こそ宇宙意志であり、之によって戦争も起り、平和も来すのである。勿論無限大から無極微に至るまでの森羅万象一切の変転流動の根源のそれである。
故に、一切の活動の根源が幽幻力であって此幽幻力こそ『絶対無限の力』そのものである。然るに今日迄の人間は、力といへば物質力即ち唯物的力を強大と信じて来たのであるが、それは凡て逆の観方であった事に気附かなければならない。何となれば物質力は如何なるものと雖も限度がある。例へば火と水の力によって発生する動力と雖も、何馬力といふ限定線があって、それ以上は許されないのである。限度を超ゆる時、それは機関の爆発といふ危険があるからである。然るに、近代科学は前述の如く、一歩霊の体の面にまで進んで来たといふ理由によって、物質力の限度を破って、無限とさへ見らるゝのであるが、実は之等も機械力によって捕捉する事も出来、又抵抗力の発現も可能であるといふによって鑑ても、無限力とは言ひ得ないのである。
然るに、私の言ふ幽幻界に於て発生する処の無に等しい幽幻力こそ、之は絶対であり、無限であり、万有の創造力でもある。従而、この幽幻力の発揮こそ、科学に非ざる科学であるといへよう。私は此力の存在の発見と利用によってのみ、初めて理想的なる人類文化の建設さるる事を信ずるのである。此意味に於て力の強弱を測定する場合、物質は最も弱く、非物質であればある程その強度を増す事で、勿論之が宇宙の原則である。
そうして私の創成した此医術の原理こそ、右の幽幻力の一部の利用である事を告げたいのである。洵に奇蹟の如き驚くべき治病力を発揮するといふ事もそれが故である。然し乍ら此事の説明に当って最も困難と思ふ事は、現代科学の理論に於ては、それを説明し得るまでに到ってゐないといふ事である。従而、やむなく唯其効果によってのみ肯き得らるる現在で、満足の余儀ない事を告白するのである。故に此意味に於て私をして忌憚なくいはしむれば、現代医学の如きはあまりにも水準の低い事を思はせるに拘はらず、現代人はこれを無上のものと信じ、貴重なる生命を託すといふのであるから、如何に危いかといふ事は、私の此医術を知る限りの人にして首肯し得らるるであらう。
私は、今一つ重大なる事を言はねばならない。それは此幽幻力を戦争に用ふる事である。例へば、墜落しない飛行機、弾丸の当らない飛行機、沈まない艦、死傷者の現在より十分の一に減ずるといふ奇蹟の作為も、敢て不可能ではないと想ふのである。 私の創成した此医術の効果に驚き、人々は現代の奇蹟といふのである。然し私は奇蹟とは思はない。何となれば霊科学的理論によって説明なし得るからである。
又、幽幻力は霊である以上、如何なる精巧な機械と雖もその発生は不可能である。独り人間の霊力即ち魂から発生する訳であるから人体こそ洵に神秘霊妙なる存在である。然るに今日迄の人間は機械の発達にあまりに幻惑された結果として物によってのみ一切を解決なし得ると思惟した為、人間に潜在する処の超物質力に気づかなかったといふのが真相である。同様の意味に於て人間の病気と雖も、物によって治癒すべきものと思ひ込んで進んで来た。それの理念に終止符を貼るといふのが本医術の生命である事は勿論である。但し、此幽幻力発揮に当って心得べき事は、私利私欲の如き不純なる観念が、些かにても混るとすれば、それは効果がない事である。飽く迄その目的が、国家社会人類の為である正義感、之を一言にしていへば至誠によらなければならない事である。
そうして私は幽幻力発揮に当って文字と言葉の重要性に就て少しく述べてみよう。文字と言葉とは、吾々人類社会にとって、如何に大きな作用をなしつつあるかといふ事を考へなくてはならない。吾々文化民族の社会から文字を取去ったとしたならば、最早、文化の進歩も興隆も停止さるるであらう。否文化そのものがあり得なくなり、文字なき時代即ち原始時代に還元するより外はあるまい。又言葉も勿論そうである。文化的意志の交換がなくなるとすれば、之も亦原始時代に還元あるのみであらう。従而、文字が作用する力や言葉の偉力によって人を動かし、国家も社会も世界をも動かし得るといふ事実は、今日東条首相やヒットラー、ムッソリーニ、スターリン、ルーズベルト、チャーチル等の言説にみても明かである。
然るに、私が爰に言はんとする所は、前述の例は体的、物的に動かし得る力であるが、右に述べた処の幽幻力即ち幽幻的に動かし得る文字も言葉もあり得る筈である。故に、幽幻力発揮の方法として、私は文字と言葉を使用したり、又は絵画を使用する場合もあり、意念を用ふる時もあるのである。そうして之等の方法を行ふ事は、寔に簡易である。
然し乍ら、幽幻力発揮などといふと、私一人の専売の如く想はるるかも知れないが、実は此原理を知り、或期間の修錬を経れば、決して出来得ない事はないのである。特に日本人は世界に比類なき霊性に富む以上、霊電波発揮には最も優秀である。唯何人にも出来得るといふ訳にはゆかない。人により生れながらに素質と信念の強弱優劣があり、それが重大関係をもつからである。従而、私は日本人中何人位出来得るやといふ事は正確には判らないのである。然し乍ら治病に関してのみは何人と雖も可能である事は曩に述べた通りである。
そうして今日迄の新しい発見や発明が、当初に於ては、その有用価値が小ではあるが、漸次進歩大成するに従っていよいよ大となるといふ事も、幾多の経験が示されてゐる通りである。従而、此幽幻力と雖もその将来に於ては広範囲に人類の福祉に一大貢献をなすであらう事も予想し得らるるのである。
(明日の医術 第三篇 昭和十八年十月二十三日)