医学とは何ぞや

医学とは、言ふ迄もなく総ての病気を治し国民の健康をより良くし、それによって国家の進運に貢献すべきものである事は勿論である。従而、幾多の国家機構中に於ける最も重要部門として、政府から特殊待遇を受けてゐる事もその為である。而も刻下の重要案件である人的資源の問題を解決すべき鍵を握ってゐるにみて、医学の使命たるや、如何に重要であるかは、議論の余地はあるまい。

私は今まで、理論と実證とを以て西洋医学の誤謬の悉くを指摘したつもりであるが、是に見逃す事の出来ない問題がある。それは曩にも説いた如く、医家及びその家族の健康問題である。私は思ふ。現代医学が真の意味に於て進歩せるものであるとすれば、その実證が適確に現はれなくてはならない筈である。如何に学術的理論を構成し、新説を発表し、新薬や機械や方法の進歩を誇称すると雖も、それが実際的に効果を示さないならば、何等の意味をなさないであらう。

故に私は、真に医学が進歩したとすれば、その実證を世に示すべきであって、吾吾の如き西洋医学非難者をして沈黙せしむべきである。万一それが不可能であるとすれば、医学の進歩といふ言葉は空虚でしかあるまい。もしそうであるとすれば西洋医学を一旦解消し事実を基礎とする新しい理論の下に、再建すべきであると思ふのである。私が斯様な事をいへば、それは余りに極端論と思はれるかも知れない。然し私は、徒らに斯様な説を唱ふるのではない。唱ふべき理由があるからである。それに就て忌憚なく解剖してみよう。

先づ、西洋医学の価値を実證する上に於て最も有力であるべき事は、曩に説いた如く、医家自身の健康と家族の健康をして、一般世間の水準よりも高くあらしめる事である。然るに今日実際を見るに於て、寧ろ一般人よりも水準の低下を疑はしむるものがある。それは先づ医学博士の短命と、医家の罹病率の多い事。その家族の弱体であり、而も医家の子女にして結核罹病者の割合多い事である。勿論医家自身としても、自己の生命を守る上には、常に細心の注意を払ふであらうし、又、家族の罹病者に対しても、早期診断以上の良処置を執るであらうから、手後れなどありよう筈はあるまい。然るに事実は右の如くである以上、近来唱ふる予防医学なるものも無意味であるといへよう。何となれば医家自身に於て、予防困難である事の実験済みであるからである。

故に私は、西洋医学が真に進歩したといふ事を社会に示すとすれば、何よりも医家とその家族の健康が、世間一般の水準よりも遙かに高きを示す事であり、それを見る世人をして、全く西洋医学の進歩を確認しない訳にはゆかないやうにする事であるが、それは恐らく不可能であらう。然るに、当局者も専門家も、口を開けば一般衛生知識の不足を言ひ、注射其他の方法を強制的に行はふとするのである。それ等に対し、国民中それを忌避する者や、関心を払はない者が相当あるといふ事実であるが、之は全く国民が西洋医学に対し、全幅的に信をおかない證拠であらう。故に当事者としては、先づ此事を考慮しなくてはならないと思ふのである。如何に大衆と雖も、人命の尊い事は知ってゐる。前述の如く、医家及びその家族の健康が不良であったり、窒扶斯等の注射によって、稀には即死する者があり、ヂフテリヤの注射によって瀕死の状態に陥るといふやうな事実も相当あるのであるから、それを知る大衆としては、一応は危懼の念を抱くのは当然であらう。又手術の過誤によって生命を失ふといふ事実も尠くない事である。私は先年、外科の某博士が他人である患者の手術は好んでするが、家族や親戚の疾患に対しては、決して手術を行はないといふ事を耳にした事がある。

之は手術の過誤を懼れるからであらう。之等は全く、西洋医学が実證的に効果を示さないからである。否、効果を示し得ないからでもあらう。此結果として、近来灸点や民間療法が繁昌するのもやむを得ないであらう。そうして今日患者の趨勢をみるに、理論を重んずる者は医学に迸(ハシ)り実際を重んずる者は民間療法に趁(ハシ)るといふ傾向は否めない事実である。

故に、多くを言ふ必要はあるまい。即ち西洋医学は、凡ゆる病気に対し確実に効果があり、悪影響などは更にないといふ事を実證するより以外、国民をして西洋医学に対し、全的信頼を為さしむる事は不可能であらう。故に、万一右の如き効果が実現さるるとしたら国民の方から進んで注射を要望すると共に、手術の躊躇なども解消するであらう。勿論、古代印度人が創成した灸治法も、二千余年前支那人が創成した漢方医学も、現在の民間療法も跡を絶つであらう事は勿論である。然るに事実は右と反対であるに拘はらず、西洋医学の進歩を云々するのであるから、そこに割切れない何物かが残るのである。

私は、今一つ重要な事を言はなくてはならない。それは今現に行ひつつある健民運動と結核対策要綱である。之等は勿論、西洋医学的方法以外には出でないのであるから、その結果はどうであらう。それは医家の家族の健康水準より以上の成績は挙げ得られないではないかと想ふのである。何となれば、医家に最も接近してゐる家族が、一般世人の水準より以上に出でないとすればそうなるべきであらう。従而多額の国帑(コクド)を費やし、多数の人的資源をそれに充てるといふ事が無意義に終らざる事を冀ってやまないものである。

然るに、此日本医術を知るに於て、家族の健康も一般水準より迢(ハル)かに高度となり理想的健康家庭が作られるといふ事である。之は事実である。言ひ換へれば、西洋医学の外形的であるに対し、本医術は内容的であるからである。此意味に於て当局に要望する処のものは、西洋医学にのみ依存する事なく、凡ゆる民間療法を調査研究し、実際を本意とする保健政策を樹立されん事である。

(明日の医術 第二篇 昭和十七年九月二十八日)