抑々、病気の本体は霊にある事は再三述べた通りでありますから『其霊の病気を治す』そうすれば体の病気は否でも応でも治るのであります。
其訳を今一層悉しく述べてみませう。
例へば、肉体の方の盲腸を除ったり、又は氷冷等で一時は良くなりますが、霊体の曇を払拭しない限り再発は免れないのであります。
其場合、盲腸があれば前より重症であり、盲腸が無ければ膿は止むを得ず其隣接部に溜るので、それが腹膜炎又は癌の原因となるのであります。
本療病術は此霊体の曇を除るのであるから全く根本的療法であります。従而、霊の曇を除るのは霊でなくてはならないので、その霊の作用といふのは、それは人体から放射する光で、此『光』以外には無いのであります。
単に『光』といっても『眼に見えぬ光』即ち『霊光』であります。然し絶対見えぬ事はない。-時々見る人はあります。
其光は大体白色で、時には青味を帯びる事もあり、閃光的で、術者の指頭、掌又は額部等から重に放射されるのであります。
此『霊光放射』によって曇を除る。それは全く神秘であります。
で、吹くのは、光で溶解された曇を払拭する訳で、丁度地上の汚濁を太陽が照らして溶解し、それを風が吹き晴らすやうなものであります。
つまり擦るのは、曇を溶け易くする為で、光で縦横無尽に掻き乱すから曇の塊が軟化する理屈であります。
然し乍ら唯物主義者に向って斯ういふ霊的事象を認識させるのは、実に困難であります。それは根本に於て信仰が違ふからであります。それは何であるかといふと、吾々は事実の信仰者であり、彼等は論理の信仰者であるからであります。
病気に対し、吾々は治ればいいので、唯それだけであり、衛生とはそれを実行して健康になる、唯それだけでいいと思ふのであります。何故なれば、一切は事実が主で、論理は事実への追随に過ぎないからであります。
吾々は学理に合った療法で病気の治らない事実を、常に余りに多く見せつけられてゐるが為に斯様な事を言ふのかも知れないので、其点は諒せられたいのであります。
(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)