茲で「造主」としての人間に就てお話致しますが-抑々、人間なるものは、誰が造ったのでありませうか-宗教的に言へば「造物主」とか「神様」とかいふ事になっておりますが、それは余りに古い事で、想像の範囲を超えております。
故に、そうであるとしても、一人残らずそれを信ぜしめる事は到底不可能でありませう。
然るに、何人と雖も絶対に否定し得ない大事実がある。それは誰しも“自分は親から生れた”といふ一事であります。自分は親に造られたといふ事、言ひ換へれば自分の造主は親であるといふ事であります。ツマリ“人間の造主は人間である”といふ事、之こそ一点疑ふ余地のない厳然たる事実である事であります。
人間には、人間を造り出すといふ-不可思議な力があるとすれば-その人間の肉体の破損ともいふべき病気を治す力があるのは、当然であります。人間なるものが機械力で作られた“ロボット”のやうなものである-とすれば、それが破損は勿論機械力で治るのは、之亦当然な訳であります。此事をはっきり認識出来得るに於て初めて「人間の病気を、真に治すのは『人間』でなくてはならない」事が判る筈であります。
人間には“一種の神秘力”がある。その“神秘力”とは「一種の霊光」-であります。その霊光なるものは、誰しも有してゐるのでありますが、人によって、その「霊光放射」に、非常な差異があるのであります。
その霊光放射に差別があるのは、如何なる訳か-といひますと-その人の魂の曇の程度に因る-のであって、その曇の程度は何によるかといふと、其人の有ってゐる-罪穢の多少によるのであって、その罪穢なるものゝ根源は「悪に属する思想と行為」の結果に因るのであります。例へていへば、君国の為を思ひ、人類の幸福を念じ善徳を施すに於て、其誠は正しき神に通じ、其人の魂は、曇が払拭されるから、常に明朗なのであります。こういふ利他愛の人は、霊光の放射が強いから、治病力が優れてゐるのであります。
それに反し、国家社会より自己の為のみを思ひ、人を苦しめて平然たる如き、自己愛の強い人は、魂に曇が堆積するので、霊光放射が無い訳であります。
元来、病原なるものは、最初に述べた通り精霊の曇であるから、それを払拭するには、病人より清い魂の持主にして初めて目的を達し得らるるのであります。故に、病人と同一程度の曇のある人は如何に治療するも、その効果は、差引無い訳であります。又、病人より曇の多い人が治療すれば、反って、曇を移増するから、病気は悪化するのが事実であります。之によってみても、治療士なるものは「常に操行正しく、社会の模範的人格者」たるべく心掛けねばならぬのであります。
ラヂュウムに就て説明致しますが、ラヂュウムは「病気を治す力」は無く「固める力」であります。人体霊光は「病気を溶解する力」、ツマリ、ラヂュウムと反対の作用であります。
(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)