カマを掛ける

取調べの場合、カマを掛けるという言葉は昔からよく言はれるが、今度の取調べに際し此カマを掛けられた事実は非常に多く、殆んど取調べの骨子となってゐたと言ってもいい。近来の取調べ方針は誘導訊問を最も嫌ってゐるやうだが、然し誘導訊問よりカマ掛け訊問の方がどの位悪質であるか分らない。何となれば誘導訊問の方が取調べの場合嘘が少ないからである。誘導訊問は言葉の技巧であるに比し、カマ掛け訊問の方は殆んど捏造的虚言であって、嘘を本当らしい巧妙な言ひ廻しで引っ掛けやうとする。故に正直な人や経験のない者はうっかり乗って了うので、彼等は大いに此手を用ひるのである。若し引っ掛からないとすれば、其人は百も承知の経験者である。経験者とは前科者といふ訳だから、初犯者は引っ掛り、前科者は巧く逃げるといふ結果になるから、善人は罪人となり、悪人は無罪となるといふ訳だ。其何よりの證拠は今回の事件で吾々全部が、此カマ掛け訊問に引っ掛ったのが原因で起訴に迄なったのをみて明かである。先づ其一例をかいてみよう。

今度帰宅後容疑者の一人である私の秘書井上福夫から聞いた話であるが、彼は平素私の仕事に忠実で、二十年間も奉仕してゐたのだから、彼の性格も行状も判りすぎる位判ってゐる。絶対悪人ではない。多くの人の批評によるも『世にも珍しい善人だ。仏様のやうだ』と常に言はれてゐる。偶には私が叱責する事もあるが、そういふ時いつも私は彼に対って『君は人が善すぎるから困る』という位である。彼は実に柔順で人の言ひなり放題になり、怒ったり、逆らったり、反対するなどは出来ない性格である。そういふ彼が今度カマ掛け訊問に掛ったんだから堪らない。それにはお誂え向きの人間である。彼は記憶にない事はないと何程言ってもテンデ調官は相手にせず、毎日々々攻められるので、極度の神経衰弱となり、果ては全身的健康さへ損なはれ、此分では生命も危ぶまれそうな心配が湧いて来たので、之は大変と思ひ、一日も早く此処を出して貰はなければならないと何でも言ひなり放題に是認したそうである。そんな訳で毎回の答弁は支離滅裂で、調官も非常に困ったそうである。井上の如き善人を調べるのは、赤児の手を捻じるやうなもので、全く善人程可哀相なのはないと思った。

斯ういふ事もあった。私が取調べを受けた際、調官はよく言う事に『今度の事件は僕の方では半年も前から充分調べ抜いたのであるから、今更隠したって何にもならないよ。何でも晒け出して言って了った方が君の得だよ』と言ふのであるが、取調べ事項を聞いてみる毎に、余りの見当違ひに驚いたのである。というのは、殆んど調べが出来てゐないやうな事項が、余りに多くあったからである。何よりも武装警官八十人も動員したといふにみて、如何に調査が届いてゐなかったかが判るので、若し充分調べがついてゐたら、そんなに大袈裟な事をする必要はなく、簡単な取調べで済んだ筈である。其時私は斯うも思った。多勢のスパイを使ひ信者に化けさせて、徹底的に調べたら一番よかった。そうすれば余りに意外な立派な宗教に驚いて調べる処か、寧ろ国家が大いに支援したくなる位だと、思はずにはおれないからである。右の如くであるから成程調べるには調べたであらうが、浅い調べ方であったに違ひない。故に充分調査したと言う事は、一種のカマ掛け訊問にすぎないのである。

前述の如くカマ掛け訊問によって、善人が引っ掛り罪人にされるとしたら、容易ならぬ問題と思った。此様な取調べ方法が、唯一のものとされてゐる現行検察制度としたら、人民は迷惑するばかりである。公明正大であるべき司法行政圏内に、右の如き非民主的の暗雲がありとすれば、一日も速かに払拭して、明朗鏡の如き法の世界たらしめん事を、望んで歇(ヤ)まないものである。前述の如き、井上の取調べに就て、同人及び金久平の二人が、其上申書を見せに来たから、左に掲げる事にした。

(法難手記 昭和二十五年十月三十日)