刑務所行き

その翌日例の如く調べ室に呼ばれた。私は交霊術などと言っても、警察官などに判る筈はないから、色々考えた末斯う言った。「実は昨夜絶体絶命の結果一心に神に祈った、すると御利益があって記憶がハッキリ浮び出し、判ったからお答えをする」と言ってスラスラ述べたのである。K氏もM氏も狐に撮(ツマ)まれたやうな顔をしてゐたが、兎も角私の陳述がいつもと違ひ淀みなく出るので忽ち調書が出来上った。私は何が何でも訊問の苦しみから免れさへすればいい。此処を出さへすればいいと思ひ、鰐(ワニ)の口から逃れたやうな気がしてホッとしたのである。恰もよしその晩K検事が出張して来て、いつものやうに取調べが始まった。私は警察官に述べたと同じやうにスラスラと陳述したのでK検事は言った。『君は今迄辻褄の合はない事ばかり言ってゐたのに、急にハッキリしたのは可笑しいじゃないか』と色々訊かれた。成程私が今まで述べた運動費の額は五六十万円と言ったり百万円位と言ったり、二百万円以上と言ったり全く出鱈目であったからで、之によってみても全然知らなかった事が判るであらう。それで私は到底理解させる事は困難だと思ったから、神に祈って奇蹟が現はれたと答えたのである。これで取調べも一段落となったらしいので私も一安心し、兎も角頭脳の破壊だけは免れ得たと久し振りで其夜は熟睡出来たのである。

処が翌日となるや午前十時頃留置室の外からすぐ出なさいと言う声がした。取調べがすんだので今日釈放されるのかと早合点し、やれ嬉しやと思った処、扉が開いて外へ出ると見馴れない警官が立ってゐる。変だなと思ふと彼は『これから静岡へ行くんだから仕度をしなさい』と言うので私は二度吃驚した。留置所係の警官も手伝って毛布を初め身の廻りのもの、持てるだけ持って二人の警官と同行自動車に乗った。約一時間位で車が停ったので、みると刑務所の門前ではないか、私はハッとした、マサカ刑務所へ入れられやうとは夢にも思はなかったからである。刑務所、刑務所、嗚呼何といふ恐ろしい忌はしい名ではないか、私は生涯の内刑務所など入れられるやうな事は絶対ないと信じ切ってゐた。此時平重盛の有名なアノ言葉を思ひ出さずにはおられなかった。『昨日は人の身の上と思ひしに、今日は我が身に振りかからんとは』その通りだ。一体私は刑務所へ入れられるやうなどんな悪い事をしたのであらうか、どうも判らない。疑問が又一つ増えたと思った。事によると昨夜交霊術によって余りにハッキリ陳述したので、それが法に触れたのではあるまいか、刑務所入りは其為かとも想像してみたが、そうでなかった事は後で弁護士から聞いて判った。

それから型の如く諸般の手続きを済ませ、警官の案内で、無気味な刑務所の建物の間を通り抜け、一丁程歩くと新しく出来た到底刑務所などとは想えない、モダンな建物の中に連れられ独居の一室に入れられたのである。みると狭いが便所もあり、小さな炊事場もあり、水道も備はってゐて、壁は白く窓は大きくて明るく実に気持がよい。真暗なジメジメした警察の留置所などとは及びもつかない清潔さで牢獄にゐるやうな気などしない。私は救はれた思ひである。窓の外を見れば庭型の広場があり、囚人の作ったらしい紫陽花の花さへ咲きかけてゐる。高い厳しい煉瓦塀に囲はれはしてゐるが、塀上の青空をくっきり描いてゐる新緑滴る五六本の大きな樹木さえ見えるではないか、間もなく官給の昼飯が来たのでみると驚いた。昔からよく言ふ物相飯とはこれなんだ。麦七分米三分位で大きなニュームの椀に盛られてゐる。菜と言えば小さな梅干がタッタ二個きりだ。先づ飯を口へ入れてみると、勿体ないが喉へ通りそうもない。すると囚人である弁当配布係が来て『差入がありますから官給弁当はお止しなさい』と言ふので止めたが、此時の差入弁当の美味さは、今猶忘れられない味だった。此処へ来て全く別世界へ来たやうな感がした。

処が私は前夜K検事に答えた霊憑り陳述が気になり始めた。といふのは元来交霊術といふのは生霊を呼んで聞くのだから正確とは言えない。自己意識が混ったり、狐霊の悪戯などもあったりして随分誤りもあるので十数年前止めた位である。况んや昨夜のそれは苦し紛れの産物であるから、どうも自信がもてない。もしか間違った点があるとしたら大変だから、其訳を言って取消して貰はなければならないと囚人係の部長にK検事に面会を求めたのが刑務所へ入った翌朝であった。その返事には午後面会するというので待ってゐたがその日は駄目で、其翌日も頼んだがやはり駄目だった。その日M弁護士が面会に来たので右の話をして相談してみた処、弁護士はやはりその事を思った通り言った方がよいと言うのである。私は弁護士に対っても、霊憑り陳述であるから正確とは言えない。苦し紛れの作り事で謂はば推理小説のやうなものだと言った。

処がその翌六月十八日刑務所へ来てから四日目であった。夜になってやっと調べ室へ呼び出されたが、此処へ来てから初めての取調べである。処が此時一生忘れる事の出来ない一大ショックに出遭った。先づ調べ室に入りK検事に対ひ合って椅子にかけるや、イキナリK検事は立上り、顔面蒼白、眼はすはり震え乍ら私に対って大喝一声『君位怪しからん人間はない。此間の最後の取調べは推理小説だと言うのか。(ハハア弁護士から聞いたなと思った)僕は真面目に調書を作ったんだよ、君の記憶がハッキリしたので立派な陳述が出来たと思って書いたんだ、それに何ぞや推理小説などとは、検事を侮辱するにも程がある。僕は赦す事は出来ない』と眼光鋭く睨みつけ、噛みつかんばかりの気勢である。

私は青天の霹靂処ではない。百雷の一時に落ちた如くに縮み上って声さえ出ない。こんなに感情を害してしまった以上、法律知識のない私はどんなことになるか判らないという恐怖で、身体は石の如く、自己存在の意識すらない。唯平蜘蛛のようにヘタバッテ一心に謝罪するばかりだ。洵に申訳ありません、何卒お許し下さい。私は馬鹿でしたというやうな言葉を何遍も繰返しつつ、滂沱(ボウダ)として流るる涙をどうする事も出来なかった、その時検事はこういう事も言った。『君の教団を潰そうと思えば余計な手数は要らない、僕一人の力で一日で潰して了えるんだよ』此言葉を聞いて私は愕然とした。私は斯う思った。信教の自由を保證されてゐる今日、仮にも三十万の信徒を擁する宗教が、一人の検事の力で一日で潰されるとしたら、宗教なるものの何たる脆弱さであらう。新宗教のナンバーワンなどと言はれていい気になっておさまってゐた自分は、実は噴火山上で昼寝してゐたやうなものだ。之は大いに考えなくてはならない重大事だと思った。此事も私が救世教々主を退(ヤ)めた動機の一つでもあった。加えるに前述の如く頭脳が大いに痛められ、今後教主の責任をつくす事は困難と思ったからでもある。

私が涙を流しての平あやまりに流石の検事も幾分平静を取戻したらしく、普通の取調べになったやうだが、それでもいつもと違ひ、皮肉タップリで兎もすれば絡んでくる。ハラハラしながらどうやら答えたが、確か此時は調書も出来ずに終ったやうな気がする。此時の調べが済んだ直後、私は斯ういう事を思った。恐らく私が物心ついて五十有余年、此時程一箇の人間に対し、平身低頭最大級の謝罪の言葉を絞り出し、あやまった事は、未だ嘗てなかった。又私は何十年来、涙など流した事もなかったが、此時ばかりは止めどもなく涙が溢れてしようがなかった。一体俺はどんな悪い事をしたんだらう、どうしても判らない。唯経済面の事は、部下に委せてあった為、私の知らなかった事を、知らなかったと言ったまでで、結局部下の罪を私は被せられたのだ。世間社長の罪を社員が被る事は聞いてゐたが、社員の罪を社長が、被せられる事は聞いた事がない。然し部下としても、教団のためと思ってやった事で、悪意からでないには違ひないが、と言って部下の過ちは、首脳者が責任を負ふという理屈はないばかりか、私の場合は世間一般の人達とは大いに違う。私は宗教家であり、一宗の教祖である。私は神の代行者と信じてゐる。従って神の意志を伝へ教えを説くのが私の本領である。此意味に於て私は俗事の外に超然としてゐるべきであると思ってゐる。

従って経済面特に金銭等に関しては唯聞くだけですぐ忘れて了う。私はそれで可いと思ってゐる。之はひとり私ばかりではあるまい。昔から今に到る迄如何なる宗教の開祖教祖と雖も、恐らく金銭上の事に迄関心をもつ者は一人もあるまい。寧ろ俗事に離れれば離れる程、真の宗教家の在り方である事は、社会の通有観念である。検察官と雖もそれを知らない筈はあるまい。私は斯う考えてくると愈々判らなくなる。御承知の如く新憲法に於ても信教の自由を認めてゐる。というのは国策上信仰の尊き使命を認識してゐるからであらう。又飜って観る時、昔から一宗の開祖教祖が法難に遭った例は数多くあるが、経済問題で法難に遭った者は恐らくないであらう。

前述の如くであるから、私と雖も宗教以外の容疑に対しては、満足な答弁が出来る筈がないではないか、而も頭脳の拷問に等しき峻烈な取調べの為、二回迄卒倒したにみて、此恐るべき取調べを避けなければ、頭脳の破壊は免れないと思ひ、やむなく窮余の一策として神憑的手段に出で、兎も角安全を得たのであるから、私のした事は頭脳擁護の為で、一点の疚しい処はない訳である。とは言うものの、仮にも本当らしく虚言を述べたので、早速訂正したいと思ひ、弁護士を通じて私の意志を伝えたのである。

以上の如き経路をよく考えてみると、私の何処に間違った点があるのであらうか、斯んなに迄怒られ、怒鳴られ、侮辱を浴びせられ涙まで流して陳謝しなければならないといふ理由は、何としても発見出来ないのである。今日人権と言う言葉があるが、そんなものは何処にあるのか、之が民主日本であり、文化国家の役人であるとは、どうしても受けとれない。公務員は人民の公僕などと言はれるが飛んでもない話だ。此処では人民は公務員の奴隷でしかないと、私は慨嘆せずにはおれなかったのである。

翌十九日午後再び呼び出され、いつもの通り取調べが始まったが、之は又意外である。昨夜とは打って変った穏かさで、私は狐に撮まれたやうな気がした。さては今日逮捕されたと聞いた渋井氏から私が贈賄問題とは、何等関係のない事を、證言した為ではなからうかと想像してもみた。そんな具合で此時は無理な訊問はなく、言はば派生的なものばかりであったから、スラスラ陳述する事が出来たのである。検事は急用が出来たので『後は晩にしよう』と曰って室外へ出て行った。其夜九時頃再び呼ばれ、若干の残りの事項を訊かれたが、之も簡単に済んで、調書は大体出来上ったやうである。するとイキナリ検事は『君はもう帰ってもいいよ』と言う。私は余りの意外に急には呑み込めず、暫くまごついたが漸く釈放された事を意識し、十一時頃出所したのである。

(法難手記 昭和二十五年十月三十日)