之を聞かされる毎に私は気が気じゃない。どうしたらいいのだらう。全然ない記憶を呼び起せと言っても無理だし、呼び起さなければ幾日でも留置されるとしたら、何とかしなければならない。斯んな苦しみをする位なら以前に何か少し位悪い事をしておけばよかった。そうすればそれを白状したら済むがなあとそんな事迄思った。私は考えに考えた末、茲に一つの方法を考え出した。それは記憶の捏造だ、つまり記憶を呼び起したらしく作為する事だ。之が彼の言う利巧といふものだらう。そこで私は恐る恐るそうしてみた。彼は丸キリ違うと言って取合はない。又私は考えた。彼の言葉の端から幾分づつでも嗅ぎ出して作ってみようと思ひ、色々引出そうとしたが彼は誘導訊問になるから駄目だと言う。仕方なしに私は彼の顔色を窺ひ窺ひ言葉の端に注意し乍ら僅かづつ作り上げ、曲りなりにも調書が出来たのである。
其時私は世にも不思議な事を自分はするのだと思った。警察官の前で自分自身で無実の罪を作るべく苦心惨澹すると言うのだからだ。私はこんな不合理な事が文化国家に有り得るものだらうか、こんな変な骨の折れる事は嘗て思ってみた事も聞いた事もない。彼は罪になりそうな陳述をすると満足相であるが、そうでない陳述は仲々受入れようとしない。然し私は罪を作るにしても手加減をした。先ず一項目に一つか二つ位成可罪が軽くて済むやうに作為して述べたのである。出てから弁護士に聞いてみると、素人の悲しさ作り方が実にまづいと言はれたのである。私の調書をみればそうなってゐるからよく判る筈だ。又彼は常に語気荒く殆んど喋舌り続けで私には喋舌らせようとしない。これには実に困った。私が喋舌らうとすると大声で打消して了ふ。仕方なく私は彼の喋舌り続ける隙を窺っては僅かづつ陳述したのである。そんな事が数日間続いた。
其頃Kという検事が出張して来て私を取調べた。処がK検事はインテリ型で其訊問は穏かで話がよく判り私は救はれたやうな気がした。其為スラスラ喋舌る事が出来たが、困った事には検事の訊問事項と警察官のそれと同一であるから、警察官に答えた事は其通り言はなければならない。然し其時の私はもう嘘を言って了ったんだからどうにでもなれという、半ば棄鉢気分も手伝って或程度検事の気に入りそうに作為した事は言う迄もない。それから二三日後応援検事と言うY氏が来て訊問されたが、之も大体警察官に答えたと同様な陳述をした。Y検事は仲々辛辣に突込んで来たが、どうやらこうやら辻褄を合せて曲りなりにも調書が出来たので私はホッとした。Y検事は数日後再び来られ、取調べを受けたが、前同様であったのは勿論である。
(法難手記 昭和二十五年十月三十日)