取調べの模様 最初の取調べ

警察に勾留された第一日目は、簡単な取調べで終ったが、第二日目であった。朝飯を済ますや直ちに二階の調室に連れられた。K刑事部長、M刑事部長の二人の外に、S警部といふ人が応援として、静岡市国警本部から此朝出張して来たと言はれた。茲で右の三人に就て感じたままをかいてみるが、K氏はどちらかといえば、物柔かい親しみ易い人であったが、M氏は如何にも調べ役人型で峻烈である。先づM氏は親父型、K氏は女房型と言ってよからう。S警部は頑丈な軍人タイプの人で、迫力があり被告は威圧される感じである。

愈々、取調べは始まった。私を取囲んで三人は代る代る訊問を始めた。最初は静岡銀行沼津支店、行員山田仁太郎氏に関する件であったが、正直に言えというので、知ってゐる事は知ってゐる、知らない事は知らないといふと、三人は声を揃えて『君は知らない筈はない。呆気たり、嘘を言ったりすると承知せんぞ、井上の言う事も、山田の言う事も一致してゐる以上、君ひとり違ふと言っても、二対一では君の方が間違ってゐるに決ってゐる』と一喝された。私は『いくら考えても私の方が本当だと思う』と言うと、三人は納得せず、どこ迄も追及する。私は驚いた。之が民主警察の調べ方だらうか、これでは民主的処か凡そ逆である。之に較べれば昔の特高の調べ方の方がどの位楽だったか判らない。如何に有りの儘を言っても、テンデ相手にしてはくれない。御自分の方の主張を飽迄通そうとする。之は大変な事だ。どう言っていいか私には判らない。私は調べられてゐるんじゃない。命令されてゐるんだ。正直に言う事それは将に命令違反でしかない。私は苦し紛れに作り事を言ひませうかと言うと、彼等は『そんな馬鹿な事はいかん。正直に言ひさえすればいいのだ』と言ふ。と言って正直に言えば全然取り合はない。凡そ世の中にこんな矛盾撞著な話があるであらうか、嗚呼神よ、自分はどうすればいいのだと只溜息をつくばかりだ。一体こんな取調べ方は何時から始まったんだらうか、最初から罪人として扱ひ、罪人にして了うのがソ連のやり方という事を嘗て聞いた事がある。然し民主日本の今日の警察がそれと同じやうな事はある筈がないと思うが、今目の前の現実はそれではないか。そんな事を考える暇にも三人の怒号は耳が割れんばかりだ。そんな訳で私はよく覚えてゐないが、不得要領の陳述で兎も角其日の取調べは終ったが、恐らく調書は杜撰極まるものであったであらう。

次の日も前日の如く、三氏から同一の問題について調べられたが、前日と同様明確な供述は出来やう筈がないので、取調べはサッパリ進捗しない。彼等は益々焦ら立ち攻めたてる。或時は語気荒く、或時は静かになるといふやうに、鬼になったり、仏になったり端倪すべからざるものがある。その時フト頭に浮んだのは、終戦後アメリカ指導の下に民主日本となるや、被告と雖も罪が決定する迄は罪人扱ひをしないという事を聞いてゐたが、現実はあまりにも違うではないか、此処は最初から罪人扱ひだ。不肖私と雖も信徒三十万から崇敬されてゐる一宗の教祖である。処がどうだ。其扱ひ方は現行犯で引っ張られた刑事被告人と何等択ぶ処はない。成程以前と違う処は言葉つきの些か叮寧になった事だ。「貴様」「お前」は使はない、唯それ丈である。私は此時程昔の調べ方が恋しいと思った事はなかった。そうして今の取調べ方で最も苦痛なのは、遮二無二記憶を呼び起せといふ記憶訊問である。成程自分が直接ふれた事か又は承認を与えた事なら、何とか記憶を呼び起せない事もないが、全然私の知らぬ間に部下が任意に行った事や、報告の際主要なるものは聞くやうにしてゐるが、忙しい時は聞き漏らしもあり、大抵な事は聞いてもすぐ忘れてしまうのである。

茲で私の性格と日常生活をかく必要があらう。私の性格は小さい事は人委せで、万事大局を掴んで事を処理するのである。それでなくては到底大規模な経営は出来るものではない。当時私は週刊新聞と月刊雑誌を発行し、編集は殆んど私一人でやってゐた。先づ記事の八、九割は私のかいたものと校正した投書や寄書である。其他単行本は一ケ年数種を著述刊行してゐた。熱海及び箱根には百人以上の労務者を使役し、大規模な地上天国の模型を造らしてゐる。言ふ迄もなく設計も様式も私一人が考案して指示してゐた。寸暇があればお守や依頼された書体等一ケ月数千枚はかくのである。信者の面会は月六回の休の外、毎日一時間乃至一時間半位数百人から、多い時は千人以上に及ぶ事さえある。それら信徒に対し質問応答並びに講話を聞かせるのである。又教団の幹部及び知名の士や有力者、新聞雑誌記者等、特殊の人達数人以上に面接してゐる。時々東京へ行く事もあるが之は一日掛りである。日刊新聞数種及び、読みたい雑誌は目を通す事にしてゐるが、私は老眼だから毎晩部下に読ませてゐる。又私は若い頃から映画が非常に好きなので、信者は私を慰めるべく各会順繰に奉仕し、月に数回は別院の広間で映画の会を催すのである。勿論勤労奉仕者数十人の慰安の為もある。又私はラヂオは好きであり、出来る丈聴くやうにしてゐるがラヂオ丈聴く事はない。何かしら仕事をし乍ら聴くので二元的である。それ程私は時間を惜しむのである。ザットかいた丈で之位であるから、如何に多忙を極めてゐるかが判るであらう、私は常に人に対って十人前の仕事をしてゐるといふが、之は敢て誇張とは思はない。

此様な私の多忙生活であるから、金銭上の事など全部部下に委せきりであり、日にどの位の収入があるのか、どの位支出があるのか聞いた事もないのである。又私は生神様の如く、信者から崇敬されてゐる以上、金銭などに関心を持つなどは其必要がないのみか、反って品位を落す事にもなるから特に触れないやうにしてゐる。之はひとり私ばかりではあるまい。世間何宗と雖も其開祖教主たるものは金銭は勿論、俗事から超越してゐるのが通例である。此様な訳で経済面や其他に関し時々大体の報告を聞く位で、金高の非常に多い場合とか、金銭以外特殊のものは参考として聞く丈で信仰以外の俗事には殆んど耳を傾けないやうにしてゐる。

それだのに何ぞや、私に対って調官の取調べは、宗教上に関する点は一言もなく、専ら経済に関するもののみである。従而如何に記憶を呼び起せと言っても不可能である事は判りきった話である。調官と雖もそれを知らない筈はないと思うが、どこ迄も経済に関するもののみを執拗に繰返し繰返し追及するので、私は其真意を解するに苦しんだのである。調官はこういうのである。『君は教団の総帥である以上金銭上の事に就ても知らない筈はない。第一それを知らないとすれば無責任極まるじゃないか』と攻めるから、私は『商事会社の社長ではないからそんな事は答へられない。然し仮に社長であっても、税金や会計上の事は専任の部下が責任をとる事になってゐて、社長は責任を負はない事になってゐる』と聞いてゐる。況んや宗教の教主たるに於てをやである。然るに何ぞや教祖の私を掴えては経済面のみを執拗に訊問するのは前述の通りである。其都度私は『商事会社の社長とは違うから宗教上に関した事なら如何様にも答えるが経済面は無理である』と言うと『そんな事はあるもんか、君は何でも部下に罪を被せやうとする、実に卑怯だ。教祖たるものは部下の罪も引受けるのが当り前じゃないか』と言うのであるから開いた口が塞らない。之では宗教家が警察官から御説教を聞かされる訳だ。私は彼等の余りの無理解に憤怒がこみあげてくるのを、彼等の感情を害しては損だと思ひ、又之も神の試練とも解して凝乎と我慢し、虫を殺して平身低頭只管御機嫌を損じないよう、之努めた事は一再ならずであった。

S警部は二三日で帰ってしまった。後はK氏とM氏の両人が、自分の仕事の合間合間に根気よく取調べたのである。少ない時でも一日数時間に及んだであらう。いつも取調べを始める前、M氏は決まって一クサリのお説教をする。その言う事はいつも同じであるが、M氏は気がつかないらしい。それはこうである。『君も一日も早く帰りてえだらうし、数人の部下も長い間牢屋に入ってゐるし、早く出してやりてえだらうから、速かに記憶を呼び起して残らず話してしまった方がいいぜ』と言ふ。又こんな事を言った事もある。『こんな判りきった事件の記憶を呼び起せねえ筈はねえ、殺人強盗でさえ五年も前の事でもよく覚えてゐてスラスラ白状するのに、君のは僅か二年前の事なんだ、覚えがねえ訳はねえ、これじゃ神様か何か知らねえが、殺人強盗にも劣るじゃねえか』とこんな調子である。余りの侮辱に私は情なさに涙が込みあげて来るのをどうする事も出来なかった。其時私は思った。成程殺人強盗のやうな異常な行為は、五年前は疎(オロ)か十年否一生忘れる事は出来まい、然し私のは全然無根の事だから忘れるとか忘れないとかの問題ではない。彼は斯んな判りきった事さへ判らないのか、判らない振りをするのか兎に角追及は益々烈しくなる。彼は度々斯うも言った。『君が記憶を呼び起さなければ呼び起さないでもいいよ、僕の方はちっとも困りゃしねえからな、けれどそれじゃ君の方が損じゃねえか、だからまあ記憶を呼び起す迄幾日でもゐて貰ふんだな-早く記憶を呼び起してちっとでも早く此処を出た方が利巧だよ、よく考え給え』とも言ふのである。

(法難手記 昭和二十五年十月三十日)