精神病は全くの霊的病患であるが、ただ発病の動機は、肉体的毒素の誘引による事がその殆んどである。先づ原因から説いてみるが例外なく此病気は不眠の持続からである。不眠の原因は内的と外的との二種あって先づ内的より説くが、それは頭脳の血液不足の為で、既説の如く毒結に因る頸部周囲の血管圧迫の為めの脳貧血である。そうして被圧迫の血管は、右側延髄部に、次いで左右何れかの頸部淋巴腺及び頭脳全体の毒素の影響であり、外的とは精神的打撃即ち心配事である。然し之とても内的原因による脳貧血の影響も勿論あるのである。
茲で血液に就て説明するが、血液そのものは物質であるが、之を霊的に観る時、活力の源泉である霊細胞で、曰はば霊の物質化が血液である。従而純血であれば霊細胞は濃度であり、貧血又は濁血は霊細胞も稀薄である。元来憑依霊なるものは、霊細胞が稀薄でなければ憑依出来ないもので、稀薄の程度に比例する。判り易くいへば霊細胞が充実し十の場合は絶対に憑依は出来ない。それが九となれば一だけ憑依出来得、八となり七となり五となり四となれば、憑依霊は六を占領する。即ち本霊四憑依霊六となるから憑依霊の方が勝ち人霊が負ける結果憑依霊の意の儘となる。それが精神病である。
そうして精神病の場合は狐霊の憑依が殆んどで、稀には狸霊もある。昔から狐憑きといふのは、之を指したものである。茲で狐霊の性格を知る必要がある。本来狐霊の性格は一寸人間には解し難い程の特異性がある。それは如何なる訳かといふと、狐霊は実によく喋舌り、連続的で決して中絶はない。且速度も著るしい。よく或種の婦人などが昂奮の結果威猛高になり相手の口を開かせず喋舌り続ける場合がある事を経験するであらう。而も論旨は辻褄が合はない。之は狐霊が人間の口を借りて喋舌るのである。其揚句本人は何を喋舌ったか分らないといふ事がよくある。それと同じように物の考へも連続的で果しがなく、それからそれへと考へる、之が睡眠を妨げ不眠の唯一の原因となるのである。精神病者がよく出鱈目な事を喋舌りつづけるのはそういふ訳であり、又医学上でいふ幻聴、幻覚なる症状も、狐霊の性能が表はれるからである。
精神病は、本医術によれば必ず全治する。それは先づ不眠の原因である圧迫毒素を溶解し濁血を浄血化し頭脳への送血が多量になる為、茲に霊細胞は充実し、狐霊は移動し、萎縮し離脱する。此実例を次に書いてみよう。
廿五歳の婦人、産後半ヶ年位経過、或事情により精神的打撃の結果、相当重症の精神病となった。日夜喋舌続け、断えず自殺を計ったりするので、男子三人で警戒した。治療によって漸次意識を恢復した。それは狐霊が頭脳から移動したからで、狐霊は肩から胸の辺に下降し絶えず喋舌り続けてゐる。私は時々『今何処で何を言ってゐるか』と訊くと『今左の胸の辺で斯々の事を喋舌ってゐます。』といふ。勿論此頃は自分の意識を取戻し、狐霊を支配するまでになってゐたからである。狐霊の言ふ事は馬鹿々々しい事ばかりである。一例を挙げれば斯ういふ事があった。大分快方に向ひ狐霊が腹部に居る頃である。或日映画を観せるべく映画館に入った。其時、『今何を喋舌ってゐるか』と訊くと『映画なんか詰らねへや、音楽は聞えるけれども、肚に居ちゃ何も見えやしねへ』と言ふので、私も噴き出したのである。其様な具合で、腹部から最後には肛門附近に下り、終に離脱したのである。勿論下降するに従って、喋舌る言葉も漸次小さくなり、終り頃は極微かで聞とれぬ位だとの事である。此患者は全快後五六年間は幾分違ふ事が時々あったが、其後何等の異状もなく廿数年を経た今日、普通の人と些かも異らないのである。
次は石川某といふ三十五六歳の男子、之は精神病になりかけの症状で、此男が飯を食はふとすると、耳元で『その飯には毒が入ってゐるから食ふと死ぬぞ』と言はれるので、驚いて罷(ヤ)め、家を飛出し、蕎麦屋(ソバヤ)へ入り、蕎麦を食はふとすると、又耳元で同様の事をいふ。又寿司屋へ入ると又言はれるといふ。其他夜寝ようとすると、往来を二三人の人が通り、その人達が『石川は怪しからん奴だから、今夜殺してしまはふ。』といふ声が聞えるので恐ろしくて寝れないといふのである。之に対し私は『それはみんな狐霊の悪戯である。人の居ないのに話声が聞える時は狐霊が言ふのだと思ひ決して信じてはならない。』と懇々説いたので彼は飜然と目覚め全快したのである。
次に廿五六歳の自動車の運転手で、此男の特異症としては屋根に上り、駆廻っては瓦をめくり往来の人に抛げつけるのである。それが治療によって意識を恢復した頃、種々訊いてみた。彼曰く『屋根へ昇る時も、屋根を駆る時も足の裏が吸着して少しの危険も感じない。故に人間の登れないやうな所も不思議に登れる。』との事である。全く狐霊の蹠(アシ)の裏の作用に因るのである。故に動物や虫類が如何なる場所も昇ったり這ったりするのは蹠の吸着作用、即ち真空になるからだといふ事を知ったのである。
次に十七歳の女学生の精神病を扱った事がある。之は非常に暴れ、或時は裸体となって乱暴する。其際三人位の男子でなくては制へられない程の力である。又大いに威張り母親を叱りつける事がある。然るに此原因は左の如きものである事が判った。即ち娘の父は数年前没し、現在は母親のみであった。その母親は、数ヶ月前或宗派神道の信者となったので、祖霊を祀り替へ、仏壇や位牌を処分した。それが為父の死霊が立腹したのが動機となった。処が父の未だ生きてゐる頃その家は仙台から東京へ移転したが、元の邸宅を売却し邸内に古くから祀ってあった稲荷をそのまま残したので、買主は稲荷の祠を処分してしまった為、その狐霊が立腹し上京した父に憑依し、父は精神病となり終に死亡した。斯様な訳で父親の霊と稲荷の霊との二つが娘に憑依したのであった。故に発作時父親の霊は母親を叱り、狐霊は常軌を失はせるといったやうな具合であったが、私の治療によって全快し、其後結婚し、今日は二児の母となり、何等普通人と異らないのである。右の如く古くからある稲荷を処分した事によって精神病になる場合が非常に多いのである。
今一つ面白い例をかいてみよう。之は、廿幾歳の青年で、大方治癒した頃私の家で使用した。何時も庭の仕事などやらしてゐたが、私の命令に対し狐霊が邪魔するのである。例へば或場所の草を全部刈れと命令し、暫くして行ってみると一部だけが残ってゐる。私は『何故全部刈らないか』と訊くと、『先生が“そこだけ残せ”、と言はれました。』といふ。私は『そんな筈はない。それでは“一部残せ”と言った時、私の姿が見えたか』と訊くと『見えないで、声だけ聞えました。』と言ふので、私は『それは狐が私の声色(コワイロ)を使ふのだから、以後注意せよ。』と言ったが、直に忘れて右のやうな事が屡々あった。
又精神病者が常に空間を見詰めるが、狐霊が憑依すると、霊が見えるのである。又何物かと問答をしてゐる事がよくあるが、之は狐霊の話声が聞えそれと応答するのである。狐霊は人の声を真似る事が巧妙で、驚かしたり脅迫したりする。例へば『今お前を殺しに来るから逃げろ』といふので、患者は急遽飛出したり、『地震や火事が起るから遁げろ』といったり、又『人を殴れ』といひ、甚しきは殺人をさせる事さへある。此様に狐霊が自由自在に人間を飜弄するのであるから堪らない。又狐霊が患者に憑依しながら外部の狐霊と応答したり、多数の狐霊が次々入れ替り憑依する事もある。そうして何故狐霊が人間に憑依するかといふに、人間を騙す事に興味を感ずると共に、人間を誑(タブラ)かす事が巧妙になる程狐仲間では巾が利くのである。斯様な事はあまり不思議で読者は信じられないであらうが、些かの誤りも虚偽もない儼然たる事実である。
そうして本病と雖も根本原因は萎縮腎であるから、腎臓部の治療を充分行ふべきである。狐霊の憑依する個所は前額部中央即ち眉と眉との中央部一二寸奥であるから、その辺に霊の放射を行ふべきである。又霊の種類とその場合によって憑依局所の異なる事がある。即ち狸霊は精神病の場合のみ頭部であるが、普通は胸部及び腹部の左側であり、龍神は腹部が多く人霊は重に頭部である。然し乍ら霊は伸縮自在であるから、人霊などは全身に拡充する場合と、縮小して一局部に居る場合とがある。之等は経験の積む程判り得るのである。
茲に注意すべき事がある。それは普通人にして幾分か頭脳の平衡を欠く人がある。此種の人は日本人中恐らく八九十%程度に及ぶであらう。而も指導階級である政治家、宗教家、教育家、事業家、芸術家等各界の名士にして少からずあるから驚くべきである。それは如何なる訳かといふと、前述の如く頭脳の霊細胞が稀薄になる場合、一乃至四までを憑依霊に占有される結果である。即ち脳の霊細胞の濃薄によって憑霊も伸縮するので、平常は真似目にして人格的行動の時もあるかと思へば、この人がと思ふやうな行為のあるのは右の理によるのである。故に人格者や善行者がフトした事から過ちを犯す場合があるがそれは憑依霊に負けるからである。又平常真面目な人でも飲酒によって人格転換したり、不良児童、不良青年等の発生も勿論憑依霊によるのである。独乙ウーファの有名な映画「ジーキル博士とハイド」などは憑霊現象をよく描いてをり面白いと思った。
何々主義などと唱へ、奇矯な言動を為す者の如きは、邪神界からの伝流によって行動するので、之は邪神が自己の野望を遂げんとする意図からである。従而斯ういふ人の主義思想を深く検討する時、必ず辻褄の合はぬ点を発見し得るのである。最も表はれてゐる特異性としては、人類愛がなく闘争と破壊を好み自己の利益を本意とし、他人の不利は顧みないといふ非協調的であり冷酷である。面白い事には此種の人に肺病が多い。それは肺患に因る貧血が憑霊し易からしむるからである。然し乍ら斯ういふ思想者と雖も、文化進展に或役目を受持ってゐる訳であるから、結局世界経綸に対する神意の一部であると想ふのである。
(天国の福音 昭和二十二年二月五日)