私はいつも思ってゐる事は、私程不思議な人間は世界肇って以来一人もない事を信じてゐる。実に何から何迄不思議だ。自分でさへそう思ってゐるのだから、他の人としたら私といふ者の実体を想像してみても、結局群盲的であらう。といふのは神秘性が余りに多いからである。処が面白い事には人間の意欲の中で、最も興味を惹くものとしては、何といっても神秘性であらう。そうして神秘といふものは、凡ゆるものに潜んでゐる。彼の人類学者が古代の遺蹟や、原始人の生活を研究するのも、其当時の神秘を探りたいからであらうし、科学者が一生を賭してまでも物理現象を研究し、解剖し、専攻するのも、無から有を生ぜしめたり、原子発見や物質転換の理を知らうとするのも、其物の神秘を暴こうと思ふからであらう。又医学者が一生を顕微鏡と首ッ引きで、死体解剖や動物実験に努力をするのも、生命の神秘を掘出そうとする目的であり、天文学者が望遠鏡から大空を絶えず覗いてゐるのも、日月星辰、風雨、雷霆、気候の変化などの研究に浮身をやつすのである。其他歴史家、地理学者等もそうであり、文学者、美術家等がインスピレーションに触れるべく、芸術的神秘を得やうとするのも同様であらう。此様に専門々々によって形は異うが、神秘を欲する点には変りはないのである。
又話は違うが、男女の恋愛にしても根本は神秘的魅力である。相愛する感情の波に揺れつつ離れ難くなって、遂には生命迄も犠牲にするのも実に神秘である。といふやうに人生は絶へざる神秘との戦ひであるとも言へやう。実に神秘なるものは、学理でも理屈でも分らないと共に、其力は無限である。従って今日の如く文化の進歩したのも、神秘探究こそ根本条件といってもいいであらう。そうして神秘中の神秘ともいふべきものは、何といっても信仰であって、神仏に対する信仰の神秘性は、恋愛以上といっても過言ではあるまい。とはいふものの単に宗教といっても、既成宗教は一部を除いては、今日殆んど神秘らしいものはないと言うのが実際であらう。成程開教当時は相当神秘もあるにはあったであろうが、長い間に在るだけの神秘は、最早暴き尽されて了ったのでもあらうが、そこへゆくと新宗教によっては神秘性が多分にあるといふのは、何だ彼んだ言はれ乍らも今日既成宗教を圧倒して相当の発展をしつつあるといふ事実である。恰度古女房と新婚ホヤホヤの若い女性との相違のやうでもあるが、然し新宗教にも神秘性の多い少いのある事は勿論だが、其中で自画自讃ではないが、特に我メシヤ教位神秘の多い宗教は、恐らくあるまい。何よりも本教発展の速かなるにみても肯れるであらう。そうして其奇蹟の本尊が私であるとしたら、私といふ者に内在してゐる神秘力は、如何に豊富であるか想像もつかないであらうから、私は出来るだけ分らしたいと思うが、此説明こそは実に困難である。どうしても或程度以上は、其人の智慧証覚に応じて覚るより仕方がないのであるから、精々身魂を磨いて覚者となる事である。では之から色々な面から、私自身を解剖し、赤裸々に露呈しやうと思ふのである。
(昭和二十七年)