私の無信仰時代

いつかも書いたことがあるが、私の前半生は、しごく平凡なものであったから、詳しく書かなかったが、その後書き漏らしたと思う点も少なくないので、興味ある話題を少し書いてみようと思うのである。

それについて、私が妻を娶ったのは二十五歳の時で、妻は十九歳であった。私のところへ来て一年ばかり経ったころ、結核に罹ってしまったのである。そこで早速医師に診てもらったところ、医師の言うには、「この病気には薬がないから、まず空気の良いところへ転地して、気長に療養するより外に方法はない」とのことであった。ところが幸いにも、妻の実家は神奈川県の金沢で、海岸ではあるからちょうどいいとして、母や兄、親戚なども口を揃えて、「この病気は伝染の危険もあるし、たとえ子供が出来ても遺伝するから(当時の学説)是非実家へ帰した方がいい」と頻りに勧めるので、私は一時はその気になったが、よく考えてみると、どうも腑に落ちない気がした。というのは、一生を契った妻が病気に罹れば、なおさら親切に介抱してこそ人間の道であるのに、伝染の危険があるからとて実家へ帰すなどは、あまりに功利的考え方で、そんな薄情なことは、私にはどうしても出来ない。一生涯苦楽を共にすべきが夫婦の道ではないかと堅く心に決めたのである。しかも幸いなことには、以前私が治った体験もあることだし、必ず治るに違いない。それのみか人間は正しい道を踏む以上、伝染するはずもないという確信が湧くのである。当時無神論者であった私として、そんな考えが湧くのは実に不思議でならなかった。それを聞いた医師も親戚の者も呆れてしまい、私を変り者とさえ思ったのである。というわけで、その時すでに肚の底には、信仰の種が蒔かれてあったのであると、宗教人となってから判ったことである。そうして、私の経験上から菜食療法にしたところ、医療も受けず三、四カ月で治ってしまった。

それからこういうこともあった。そのころ、桂庵(ケイアン)から雇った十六、七歳の山出し下女があったが、この女が病気になったので、房州の実家へ帰したところ、暫くしてからヒョッコリ訪ねて来た。見ると真っ蒼な顔をしているので訊ねたところ、その後だんだん悪くなり、医師から重症結核と診断をされたので、周囲の者から嫌われ、しかも、赤貧洗うが如き家庭なので、邪魔者扱いにされ、「“働きに出ろ”と言われるのでまいりました」と涙ながらに言うので、私も大いに同情し、『そんな身体で働くなどは、とんでもない話だ。すぐ実家へ帰りなさい。その代り食扶持と医療費を、お前の生きているあいだは、必ず送ってやるから』と言ったので、喜んで帰ったが、それから毎月確か十五円ずつ送ってやったと憶えているが、当時としては、そのくらいで充分であったのである。

しかし、それだけの話なら情深い人なら、世間にないことはないが、これについて書きたいことがあるから、この話を挿入したのである。というのは、当時私の親戚、知人などは、よくこう言ったものである。「その娘の肺病が治る見込があるならいいが、あれでは死ぬに決まっている。死ぬに決まっている者を援けてやったところで、つまらないじゃないか。治ってから働いてご恩返しが出来るならいいが、そうでないとしたら、無駄な金をつかうだけで、つまらないじゃないか。早く止した方が利口だよ」と勧めるのである。そこで私は言ってやった。『私は恩を着せて、代償をもらう気は些かもない。人を世話して恩返しを期待するなどは一種の取引で、まるで恩を売るようなものだ。だから、そんなものは慈悲でもなんでもない。善人らしく見せる一種の功利である。ただ私は、あんまり可哀想で見ていられないからそうしたまでで、つまり、自然なんだ。私はそれで満足しているんだから、いいじゃないか。大きにお世話だ。成程あんた方からみれば、馬鹿と思うだろうが、馬鹿でもなんでも結構なんだよ』とマァこんなふうに言ってやったので、みんな呆れて黙ってしまったことがあった。

この時の私も全然無信仰で、唯物主義のカンカンでありながら、まるで信仰者のような考え方なんだから、表面は無信仰でも、肚の底は、すでに信仰者になっていたわけである。

(昭和四十年十二月二十三日)