抑々宗教は如何なるものであるか、又其目的は何か、先づ此の点から検討しなければならないであらう。人間が此の娑婆に生きて居る時、誰もが体験するところのものは、余りに其目的意志と相背反することが多い事実である。又思はざる災厄や不幸や罹病等、人力では免れることの出来ない諸種の苦悩の発生である。釈迦の生病老死と云ふ免るゝ訳に往かない確定的の四苦さへもある。それ以外死後の不安も忘るゝ事の出来ない一つである。
是等に対し人間の限りなき欲求は、凡ゆる苦悩を免れんとする以外に、その実体を見極めやうとすることになるのは無理のない話である。十八世紀以前の人類は、此の解決を全部宗教に求めやうとしたのである。併しながら其時代迄の凡ゆる宗教と雖も其解決は遂に与へられなかったのである。故に其真理を把握しやうとして、求道者達が血の出る様な難行をしたであらうことは、歴史に拠っても想像し得らるゝのである。
それ程の事をして獲得したものは何乎、それは単に「諦め」の二字でしかないのである。人間が如何に欲求しても如何に真理を探り当てよふとしても、それは到底無益であると云ふことを知る境遇以上には到達しないので、それが悟りを得たと云ふのである。故に其悟りの境地こそ覚者であり、最後の到着点で、彼岸のそれであると思ったのも無理は無いのである。
彼の釈尊と雖も、或る程度の真理は把握し得たに違ひないが、実は絶対までには到達しなかったと思ふのである。ナザレの聖者イエスと雖も、絶対は把握し得なかったことは勿論である。其他マホメットも空海も親鸞も日蓮も、そうであったに違ひない。何となれば彼等の遺した事蹟の価値から云っても、充分看取し得らるゝのである。
そればかりではない、今日の宗教家が唱へ又行って居るそれを見るが善い、悉く古聖賢の流れを絶対無二の信条として居ながら、その孰れもが宗教迄に到って居ない事である。或者は道徳を唱へて居り、或者は教化事業を宗教の全部と錯覚して居る。又或者は宗教は理論と思って居る。甚しいのになると科学と哲学とで宗教を説かふとして居る。又社会事業に専念して居ると云ふのが、実際であるに見ても、それは宗教的ではあるが、真の宗教ではない。
然らば真の宗教とは如何なるものであるか、それを説いて見よう。しかし先づ之を説くに当って、その根幹とも言ふ可き条件を示して見る。
一、真理の具現
二、偉大なる目標
三、過現未の透観
四、神力又は仏力の顕現
五、光明の示顕
六、現幽の利徳
七、天国的生活
八、治病の可能
右の条件を全具して居るものが真の宗教であるが、その中の一箇条にてもあれば、それだけの宗教的価値はあるが事実現在の宗教の殆んどが、恐らく零であると云って可いと思ふのである。そうして右条件の一つ一つに就いて略説して見やう。
一、真理の具現とは、天地自然の運行、万象の流転と、一切の生成化育の実相行姿其儘であって、例へて言へば、人は人としての道を行じ、又人は生れながら其各々の天職使命があり、階級も儼として定って居るのであって、それを知りそれを実行することが、人としての真理の具現であり、それに依って永遠の歓喜と栄とを得、安心立命を得らるゝのである。然るに今日はそれを教へ、夫を行ぜしむる力ある宗教がないから、人々は迷蒙に墜り、知らず識らず他の範囲を犯し、軌に外れ道を失ひ、其極争や混乱を生むのである。是等は独り個人に限らず、社会も階級も国も世界も、悉くそれに漏れないと云ふ実状である。此時に当って宗教者なる者が、天地の真理を弁へないから、人を教ゆる力もなく感化する徳も無いのである。又是に就いて仏典もバイブルもその他の聖典も、実は真を説き、実を誨(オシ)へて居ないのであるから、人として知る事が出来ないのも致し方ないのである。何となれば、若し何れかの聖典に真実を説いてあったなら、今日の如き苦悩と混乱との時代は実現しなかった筈であるからである。又真理が全具現されたならば、多数人が今日の如く病に罹り易く、天寿を全ふするものが暁の星の如く寥々たる筈がないのである。是等に依って見ても、此一箇条さへ現在の宗教中に有して居るものは無いのである。
二、偉大なる目標とは、世界万民が之に向って、仰ぎ拝み崇敬するに於て、真の智慧と力と幸とを得られ、絶対安心の境地に在らねばならない事である。そうして血の出るやうな難行や苦行的の、自力は必要が無いばかりか、真の神霊としては喜ばれ給ふ筈がないのである。そうしてその目標である神仏に大なる力があれば、如何なる願ひ事でも正しければ、容易に肯かれ給ふからである。又力のある神仏とは万能力を有せられ給ふからである。万能力を有せらるゝは最高の御神格を具有せられるからである。此の故に難行苦行をしなければ、利益を恵まれないと云ふ事はそれは人間自身の力を必要とするからで、要するに其目標神の力の不足を、人間に補はせられるを意味するもので、それは其目標神が第二流以下の神である訳である。全然自力を要求しないで、大きな利益を無限に賜はると云ふ目標神は、今の宗教のどれにも有り得ないことは実際の事実である。
三、過現未の透観 仏教に於てはよく過去現在未来を云々するが、どうも寔に不徹底である。昔から三世通観などゝ謂ふけれども、過去と未来とに向って明確に実相を説示したものはないのである。過去と雖も唯単に漠然たる仮定説的で、現代人を満足せしむる価値は無いと云っても可い。真に三界の深奥を明かにし得るものは無いのである。そうして如何なる宗教と雖も、善悪の根本すら徹底的に説破したものは、絶対に無いのに見ても明かである。それは何故であるかと言へば、既存宗教の殆んどは、其開祖が第二流以下の神仏である関係上、主神の最奥の経綸が解る筈が無いのであるから、止むを得なかったと云ふ可きである。未来に到っては勿論具体的に徹底説示したものは無かった。唯漫然と簡単に予言はされて居る。それが仏教の彌勒の世、基督教の天国来、天理教の甘露台の世その他である。要するにそれだけであって、それ以上の説明はなし得なかった事は致し方なかったであらう。
四、神力又は仏力の顕現 既存宗教の何れを見ても神力仏力の顕現は、開教当時それぞれ若干あったのは事実であるが、大なる力、それは無かったのである。故に人類は真の神力なるものは、未だ知らないのである。然るに愈々観世音菩薩が救世的大偉力を発揮され給ふ時となったのであって、是は人間の想像を絶するのである。今後それが如実に具現し、世界万民に福祉を給与され給ふ実際を仰ぐより致し方ないであらうが、今日唯その片鱗を観る事は出来るのである。それは今現に行はれつゝあることで、それは如何なる人でも、病気治療の術を、一週間の講習を受けたゞけで、二、三十年間専門的に修練した医学博士の、何十倍もの治病能力を得られると云ふ事だけを見ても、其偉力を想像し得るであらう。そうして如何なる宗教と雖も、人類からの病苦を抜除し得る力がないならば、それは絶対神力あるものではない。絶対神力がないとすれば、勿論最高の神の宗教ではない。第二流以下のそれであることは勿論である。是に依って見ても現在までの宗教は真の宗教としての価値はないので、或る期間中に於ける仮定的存在であった事が判るであらう。
五、光明の示顕 本来神霊は肉眼に見得るものではないが、霊界に於ては想像出来得ない程の大いなる光と熱とを放射し給ふもので、其御神姿は崇高善美なる人間と同一の御姿である。そうして其御本体から放射され給ふところの、その光と熱とは余りに強烈である為めに、常に水霊に依って包まれ給ふものである。本来真の神とは火のカと水のミを称して神と云ふのである。火水の御働きをされ給ふからである。故に火の働きばかりではカミではない。水の御働きばかりも神ではない。火水一致して初めて大神力が顕現されるのである。然るに今日まで諸々の神が地上へ示顕されたが、それは何れも一方の御働きであった。それが為めに神力と云ふものが示顕されなかったのである。何となれば物質に於ても火と水合致によって動力が起るので、その動力によって機関の活動が起るのである。又草木に於てさへ太陽の光と太陰の水とによって、生成化育すると同一の理である。しかし大神力は火と水との外に土の精が加はるのであって、それを称して、三位一体と云ふのである。此の三位一体の力によれば如何なる事も成し遂げ得らるゝと云ふ絶対力なのである。此の力が現はれた時、初めて人類は更生し、歓喜と幸福とに満ちた理想世界は出現するのである。本当の意味から云へば、今日まで出現された神も仏も、其光は月光のそれであったので、太陽の光は未だ顕現されなかったのである。月光のみであった期間を夜の世界と云ふのである。然るに彌々其時が来たのである。太陽の光が顕れたのである。それが東方の光である。私の描いた御尊像から光明が放射されると云ふことは、それの一部を示されるのであり、又私が病気治しをする場合、手や指から種々の光が出るので、それを肉眼で見た人は幾人もあるが、それ等もそれである。是を以て見ても既存宗教には、未だ光明の示顕は無かったと言ひ得るのである。
六、現幽の利徳 既存宗教に於ては現幽両全の利益あるものは無いのである。その多くは未来の利益を標榜して居る。彼の仏教信者が如来を信じて、未来の浄土を目標とする結果、現世利益を軽視して居る事や、基督教信者が天国を夢みて、現世に於ける苦悩をどうすることも出来得ないから、それに甘んずる哀れな実状や、天理教などの信者が病貧に喘ぎながら、当にもならぬ甘露台の世の幻影を描きつゝ、滅び行く惨状等に見ても、夫等の宗教が現世利益の無い事を證拠立てゝ居るのである。唯纔(ワズ)かに天狗稲荷等の低級宗教に、現世利益が多少あるばかりではあるが、是等は淫祠邪教の類であるから問題にはならない。唯是等の中に在って、昔から観音信仰のみが、現世利益の有ると云ふことは、普く世人の知って居る所である。しかしながら観音信仰が未来の利益も併せ得らるゝと云ふ事を、世間は未だ知らないやうである。仏者によっては未来の救は阿彌陀で、現世の救が観音であるとして居る者が多いのであるが、是等は真相が判って居ないからである。勿論未来は阿彌陀であることは間違ひはないが、観音は現世及び未来即ち現幽両界の救である。之が自由無碍なる所以で、其言葉がそれを表はして居るのである。恰度例へて云へば、番頭は番頭だけの権能より無いが、主人は主人であって番頭の権能をも有して居ると同じ理である。否観世音菩薩こそは、神幽現の三位一体の権威と力とを具有し給ふのである。此の故を以て、顕幽両全の利益ある信仰は、独り観音信仰のみであって、他には絶対に無い事を知らねばならないのである。
七、天国的生活 世間の凡ゆる宗教は、即心即仏とか娑婆即寂光浄土とか、地上天国とか、甘露台の世とか云って居る。是等は多く未来の理想世界であるとし、現在としての苦悩はどうしやうも無いと、唯忍苦、諦めのみに努力して居る。其結果終には苦悩を楽しむのが、信仰に徹して居ると云ふやうにさへなって了ったのである。それは苦悩を排撃する事が出来ないので、苦悩に負けるのを満足するのであり、苦悩を肯定する事であり、終に苦悩を常態観とさへするに到ったので、謂はゞ苦悩の奴隷になって了ったと云ふのが実際である。恰度病気を駆逐する事が出来ないから、せめて養生だけで現状維持の儘、一日でも長く生きようとする現代医学の如うなものである。 是等は大いなる宗教的錯覚であって、真の宗教が生れなかった為めである。真の意味から云へば苦悩を拝撃する事である。不幸を否定する事で、否解消する事であらねばならぬ。之に依ってのみ地上天国も、理想世界も出現するのである。此の意味に於て私が常に称へる、病貧争絶無の世界と云ふのは、之を指示したものである。しかし人類は何千年もの間、苦悩の世界が続いたが為め、光明世界などゝ云ふと絶対実現し得ない痴人の夢の如くに想ふのも無理はないのである。しかしながら光明世界を建設せんとするには、天降り的に又は劇の暗転式に突如として成立つのではない。一歩々々築き上げて往くのである。それが万物化育の法則であるから、此の法則を外しては成立し得ないのである。そうして一歩々々築き上げて往くと云ふ事は、先づ我々自身が否我々の家庭から一歩づつ築き上げて往かなければならない事である。しかし今日迄の宗教は如何に熱心にすると雖も病貧争を絶無ならしむる事は絶対不可能で、それはその神仏の力の欠除の然らしめたところである。故にそれ等信者なるものは、常に苦悩に甘んじながら、漫然と理想生活を夢みつゝ、次々に死んで行くのであって、その幻影の実現が余りに遅延するに依る幾度とない失望は、誰しも喫しつつあるのである。
八、治病の可能 既成宗教に於ては宗教的治病は不可として居るが、是位怪しからぬ話は無いのである。それは自己無能の糊塗でしかないのである。宗教は科学以上の存在と自惚れて居るにも拘はらず、病気を治し得ないと云ふ事は、科学所産の医学よりも劣ると云ふ自白である。科学以下の価値としての宗教これは宗教ではない。先づ宗教に似た論理乃至道徳でしかなからう。しかしながら彼等は曰ふのである。治病はしないが人の霊魂を救ふのであると。しかし是は立派な詭弁である。魂が救へれば肉体は救へない筈がない。何となれば魂と肉体とは別々の存在では決してない。両者は融合一致して居るものであるからである。例へて言へば肉体だけで心魂の無い人体はない。心魂だけで肉体のない人間もないのである。これ位割り切った簡単なことすら盲目にされて居る。次に新興宗教に於ては相当治療に専念し、又その効果も多少あるにはあるが、是等も病気によっては治るという条件附のもので、又其治病率も何パーセントの実績を挙げ得るかと云ふ事すら、明確に示されないのであるから、其効果は疑問たるものである。そうして治癒しないものは、信仰が足りないとか、行が間違って居るとか云ふ言訳附のものであるに於て、決して絶対力あるものではない事が解るのである。実際真の宗教治病力と云ふのは、治癒力百%でなくてはならぬ。そうして信仰が浅いとか、深いとか信ずるとか信じないとか云ふ条件附であってはならない。信不信又は疑を持つ等は問題にならないのである。如何なるものでも無条件で全治する程の絶対力がある事こそ真の宗教である。故に此条件に合致した宗教は、恐らく一つもないのである。此の点に於て現在の新興宗教の治病などは、洵に微力なものであるから、社会からインチキ視せらるゝのも止むを得ないであらう。
以上八項目に分ちて解説せる宗教の条件や価値に対して既成宗教中一のパスするものすら無いであらう。否八項目中一項目さへパスする宗教も恐らく無いことは断言出来るのである。是に依って観ても、未だ人類社会に真の宗教は出現しなかったことは明かである。
前述の理由に依て見ても世間宗教と云へば必ず迷信を聯想するが、是は間違って居ないのであって全然迷信の無い宗教は無いのが実際である。実は凡ゆる既成宗教は真の宗教が生れる迄の過渡的産物であり、仮定的に真理を説いたに止まるのであって、全く真理の如きものを説いたまでゝある。仏教の真髄は真如であると釈尊の言ったことは、此の真理の如きものであると云ふ意味と思ふのである。故に真の宗教が生れた暁、必然万教は帰一されない訳には往かないのである。八宗九宗何十派等と謂って、蝸牛角上の争をして居ると云ふ訳は絶対の権威と神力とを有する一大宗教が生れなかったからである。今や顕はれんとする真の宗教が、如何に人類が未だ経験した事の無い歓喜と幸福とを与へらるゝ大威力あるものであるかは、事実によって万人が知り得るであらう。
(内公十五巻七月号 昭和十一年七月一日)