迷信とは何ぞや?と云へば、正信の反対であることは云ふまでもない。即ち正しからざるものを、正しいと誤信することが迷信であり、真理でないものを真理と誤信するのと同じである。近来新興宗教即ち類似宗教を目して、無暗矢鱈に無批判的に、迷信邪教と片附けて終ふところの、一部のインテリ層及び既成宗教家群がある。此の人達の曰ふことを聞くと恁(コ)うである。
輒(スナワ)ち現代人は社会的不安に脅かされ、生活の苦境に喘いで居る結果、何等かの精神的糧を求めて居る際、偶々病気や不幸を解消して、絶大なる幸福を与えるといふ牡丹餅で頬辺を叩く様な、現当利益を吹込まれるので、忽ちそれに飛び込むのであると、まるでその御本人の肚の底を透視するかの様に云ふのであるが、是が抑々可笑しな話である。御自分は迷信と断定して触れやうともしないところの類似宗教へ、全然反対の立場であるところの入信者の心理状態は識る詮もない筈である。盗心の無い者は泥棒の心の底は判らない。鰒(フグ)を喰ったことの無い人が、鰒の味を語ることが出来ないと同一の理である。そうして是等反対側の方のインテリ達は、科学を絶対無二のものとして居る人々であり、又既成宗教家達は、宗教を理論で究明し、奇蹟を絶対否定して居る人達である。
斯文を書くに当って、私はどちら側にも与(クミ)しない、公平な観方を専らとして居る積りである。そして先づ私は言ふのである。迷信製造者に二種あることを言ひ度い。その一は無論類似宗教企業家であり、今一つは科学者とそして既成宗教家の人達であると云ふことである。しかし類似宗教企業家が、迷信製造者であると云ふことは、余りにも言ひ尽されて居るから、爰では言はないことにして、第二の科学信奉者と既成宗教家達が、旺んに迷信を製造しつゝあるといふ、洵に意外なその事実を云ひたいのである。科学信奉者達が迷信を作ると云ふことは、一寸聞くと不思議に思はれるであらうが、是は実に軽視することの出来ない社会的重大事である。
現代文明の基調は言ふまでもなく泰西に生れた科学文化である。従って現代の凡ゆる社会的機構、即ち政治に経済に法律に教育に医学に生活に、凡ゆるものが科学を基調としないものは無いのである。科学以外に超然として居る可き筈の宗教でさへが、科学的になりつゝあるのに見ても、如何に科学全盛の時代であるかを識る可きである。
此処に於て学校教育によって、長年科学を詰め込まれたところの大多数の小インテリ群は、科学と理論によって、如何なることも解決さるゝものと絶対的信を措くやうになるのも無理のない話である。然るに彼等が踊り出でたる実際社会はと見れば、その余りにも期待に副はないのに、先づ幻滅の悲哀を喫するのである。それは複雑な社会的実際が、余りにも理論と喰ひ違って居る。例へば正直な小羊が、横暴なる狼に虐げられてる状態や、万病が現代医学によって、完全に治癒されるとの期待も、実際を知るに及んで見事裏切られ、茲に科学と論理との絶対を過信したことに、尠からず失望を感ずるのである。科学と論理が最早絶対信頼者でなくなった以上、之に代る可き絶対信頼者を求めんとするの心理は、誰もが同じやうに行く可きところである。此際是等の小羊群が科学で説明出来ないやうな、奇蹟を見せられるところの類似宗教を知って、一も二もなく飛び込むのは寔に当然な帰結である。
此の事実を冷静に熟視する時、其処に何物を発見し得るであらう?、それは科学過信の反動が迷信へ誘はれると云ふ事実である。現代科学は実に驚嘆す可き発明や発達を遂げて、人類の眼は全く幻惑されて了って、如何なる問題も科学に依れば解決し得ないことはないと思って居るが、爰に恐る可き認識不足が伏在されて居ると云ふ重大事を、大衆は気付かないのである。
一切を科学で解決しやうとする此の思潮の謬りに気付く時が、既に来つゝあることを知らなければならない。今日の無差別的科学謳歌の時代は、言はゞ夜明前である。茲に於て私は明日の時代を語らんとするものである。その明日の時代とは何か、それは科学は今よりずっと極限されることである。一例を挙げるならば、科学を基本として成ったところの立憲政治は、尠くとも日本には通用しないことである。それは天皇機関説を生む懼れがあるからである。故に神霊を認めない限り、日本の国体は絶対認識出来る筈がない。又天体現象を予知し、又は変化し得可き天文学や、人体現象を左右し得る医学や、人心を改造する力のある教育法等は、当然科学の分野から脱しなければならないことにならう。従って将来は形而下の科学の外に、別に形而上の--今名称は付けられないが--神霊学とでも言ふ可き、新らしい精神文化学が生れなければならない訳である。其結果今日の科学と、明日の神霊学との二大分野となって、それが歩調を揃へて進歩発達する事になるであらう。野獣のやうな私欲によって、戦争ばかりしたがる欧米の白色野蛮人も、その時代には平和を楽しむ立派な民となるであらう。一切を解決し得ると誇称する科学の僣上が原因をなして、科学失望者を次々生んでは、類似宗教へ趨らすのである。故に迷信助長者としての役割を、科学も立派にして居ると言へるのである。
次に既成宗教家が迷信製造者であると云ふ訳は、是は毎度私が言ふ通り、理論で大衆を救はふとするその謬りからである。社会事業の経営を主としなければならない程に、無力となった既成宗教家達が、太鼓を敲(タタ)いて迷える羊を呼び入れたとて、其処に何の魅力があらう。何千何百年前から言ひ旧るされた経典の説明や、理論で構成された教理を、如何程聞かしたところで、其処に何の魅力があらう。病気も治癒されなければ、不幸を除去する力も無いから、止むを得ず不幸も、病気も、悩みも、其儘として、理論と諦めるだけでもって、安心立命をさせやうとする其無策が、大衆を失望させるのも無理はない。
既成宗教の無力に失望した大衆は、一体何処へ行くのだ?。此の憐れなる小羊は些かなりとも悩みの軽減する奇蹟を探し求むるのは当然な心理ではある。此点に於て類似宗教には多少なりとも、それぞれの奇蹟があるから此の魅力に引づられる。それが現在の状態である。それ故既成宗教家も迷信製造の役割を科学者と同じやうに担当して居ると云っても、過って居ないと思ふのである。其癖一方では類似宗教を迷信として攻撃して居ると云ふ、笑へない喜劇を吾々は日々見物させられて居るのである。
(内外公論十五巻二月号 昭和十一年二月一日)