或日の対談 (光新聞四十六号)

最近の事であるが、客は宗教関係の責任の地位にある人である

客「世間では、観音教団は随分金が儲かるといわれるが之はどういう訳であるか、此の点を伺いたい」

私「よくそういう話を聞くのであるが、宗教も金がなくては思うように人を救う事は出来ない。一殿堂を造るにも今日は莫大な費用を要する。本山の造営、分所支部、出版等発展するに従って金はいくらでも要る。然し、私の方は搾取は全然やらない、信者の自由意志の献金ですべてを賄ってゆく。処が本教は御利益が素晴しい、死の宣告を受けた重難病が治る、つまり一つよりない生命を戴いたその感激が献金となるので、お義理やお附合でやるより多額であるのは当然である。そんな訳で、集った金をドシドシ造営費や宣伝費に費消する。然し、新聞雑誌で言うような、あんなベラ棒な金額は全然デマであって、ジャーナリストも大きな罪を作っている訳である」

客「ナルホド、判りました」

(光新聞四十六号 昭和二十五年一月二十一日)