天国建設の順序と悪の追放

抑々此世界を天国化するに就ては、一つの根本条件がある。それは何かといふと、現在大部分の人類が心中深く蔵されてゐる悪の追放である。それに就て不可解な事には、一般人の常識からいっても悪を不可とし、悪に触れる事を避けるのは勿論、倫理、道徳等を作って悪を戒め、教育も之を主眼としてをり、宗教に於ても善を勧め、悪を排斥してゐる。其他社会何れの方面を見ても、親が子を、夫は妻を、妻は夫を、主人は部下の悪を咎め戒めてゐる。法律も亦刑罰を以て悪を犯さぬやうにしてゐる等、之程の努力を払ってゐるに拘はらず、事実世界は善人より悪人の方が多く、厳密に言へば十人中九人迄が、大なり小なりの悪人で、善人は一人あるかなしかといふのが現実であらう。併し乍ら単に悪人といっても、それには大中小様々な種類がある。例へば一は心からの悪、即ち意識的に行ふ悪、二は不知不識無意識に行ふ悪、三は無智故の悪、四は悪を善と信じて行ふ悪等である。之等に就て簡単に説明してみると斯うであらう。一は論外で説明の要はないが、二は一番多い一般的のものであり、三は民族的には野蛮人、個人的には白痴、狂人、児童等であるから問題とはならないが、四に至っては悪を善と信じて行ふ以上正々堂々として而も熱烈であるから、其害毒も大きい訳である。之に就ては最後に詳しくかく事として、次に善から見た悪の世界観をかいてみよう。

前記の如く現在の世界を大観すると、全く悪の世界といってもいい程で、何よりも昔から善人が悪人に苦しめられる例は幾らでも聞くが、悪人が善人に苦しめられる話は聞いた事がない。此様に悪人には味方が多く、善人には味方が少ないので、悪人は法網を潜り、堂々世の中を横行闊歩するに反し、善人は小さくなって戦々兢々としてゐるのが社会の姿である。此様に弱者である善人は、強者である悪人から常に虐げられ、苦しめられるので、此不合理に反抗して生れたのが彼の民主々義であるから、之も自然発生のものである。処が日本に於ては長い間の封建思想の為、弱肉強食的社会が続いて来たのであるが、幸ひにも外国の力を借りて、今日の如く民主々義となったので、自然発生と言うよりも、自然の結果といった方がよからう。といふやうに此一事だけは、珍らしくも悪に対して善が勝利を得た例である。併し外国と異って日本は今の処生温(ナマヌル)い民主々義で、まだまだ色々な面に封建の滓が残ってゐると見るのは私ばかりではあるまい。

茲で悪と文化の関係に就てかいてみるが、抑々文化なるものの発生原理は何処にあったかといふと、根本は善悪の闘争である。それは古への野蛮未開時代からの歴史を見れば分る通り、最初強者が弱者を苦しめ、自由を奪ひ、掠奪殺人等恣(ホシ)いままに振舞ふ結果、弱者にあってはそれを防止せんとして種々の防禦法を考へた。武器は固より垣を作り、備へをし、交通を便にする等、集団的にも個人的にも、凡ゆる工夫を凝らしたのであって、此事が如何に文化を進めるに役立ったかは言う迄もない。それから漸次進んで人智は発達し、文字の如きものも生れ、集団的契約を結ぶやうになったが、今日の国際条約の嚆矢(コウシ)であらう。尚社会的には悪を制圧するに法や罰則を作り、之が条文化したものが今日の法律であらう。処が現実はそんな生易しい事では、人間から悪を除く事は到底出来なかった。寧ろ人智の進むにつれて悪の手段が益々巧妙になるばかりである。といふやうに人類は原始時代から悪の横行とそれを防止する善との闘争は絶へる事なく今日に至ったのである。

然しそれによって如何に人智が進み文化が発達したかは知る通りであって其為の犠牲も亦少なくなかったのは亦止むを得ないといふべく、兎に角現在迄は善悪闘争時代が続いて来たのである。処がそれら善人の悩みを幾分でも緩和すべく、時々現はれたのが彼の宗教的偉人で、其教の建前としては物欲を制限し、諦観思想を本位とし、従順を諭へると共に、将来に希望を有たせるべく地上天国、ミロクの世等の理想世界実現を予言したのである。又一方悪に対しては極力因果の理を説き、速かに悔ひ改めるべく戒めたのは勿論で、それが為幾多の苦難に遭ひ、血の滲むやうな暴圧に堪へつつ教へを弘通した事蹟は、涙なくしては読まれないものがある。成程之によって相当の効果は挙げたが、然し大勢はどうする事も出来なかった。又反対側である無神主義者の方でも学問を作り、唯物的方法を以て悪による災害を防ごうとして努力した。其結果科学は益々進歩し、文化は予期以上の成果を挙げたのである。然るに一方思はざる障碍が生れたといふのは、右の如く進歩した科学を悪の方でも利用するやうになった事である。

先づ戦争を見ても判る通り、兵器は益々進歩すると共に、凡てが大規模になりつつある結果生れたのが彼の原子爆弾である。之こそ全く夢想だもしなかった恐怖の結晶であるから、此発見を知った誰もは、愈々戦争終焉の時が来たと喜んだのも束の間、之を悪の方でも利用する危険が生じて来たので、不安は寧ろ増大したといってもいい。とはいふものの結局戦争不可能の時代の接近した事も確かであらう。之等を深く考えてみる時結局悪が戦争を作り、悪が戦争を終結させるといふ奇妙な結果となったのである。斯う見てくると、善も悪も全く深遠なる神の経綸に外ならなかった事はよく窺はれる。そうして精神文化の側にある人も、物質文化の側にある人も、心からの悪人は別とし、共に平和幸福なる理想世界を念願してゐるのは言う迄もないが、只問題は果して其実現の可能性がありやといふ事と、ありとすれば其時期である。処がそれらに就ての何等の見通しもつかない為、人類の悩みは深くなるばかりである。そこで心ある者は怪疑の雲に閉されつつ、突当った壁を見詰めてゐるばかりであるし、中には宗教に求める者、哲学で此謎を解こうとする者などもあるが、大部分は科学の進歩によってのみ達成するものと信じ努力してゐるが、之も確実な期待は得られそうもないので、行詰り状態になってゐる。処が現実を見れば人類は相変らず病貧争の三大災厄の中に喘ぎ苦しみ乍ら日々を送ってゐる。処が之等一切の根本を神示によって知り得た私は、凡ゆる文化の誤謬を是正すべく解説するのである。

前記の如く悪なるものが、人間の不幸を作るとしたら、神は何故悪を作られたかといふ疑問である。然し此様な不可解極まる難問題は、到底人智では窺ひ知る由もないから、諦めるより致し方ないとして、宗教は固より如何なる学問も、今日迄之に触れなかったのであらう。然し何といっても之が明かにならない限り、真の文明は成立される筈はないのである。そこで之から其根本義を開示してみるが、実は現在迄の世界に於ては悪の存在が必要であったので、此事こそ今日迄の世界の謎でしかなかったのである。そうして悪の中で最も人間の脅威とされてゐたものは、何といっても生命の問題としての戦争と病気の二大災厄であらう。そこで先づ戦争からかいてみるが、戦争が多数の人命を奪ひ、悲惨極まるものであるのは今更言う迄もないが、此災厄から免れやうとして、人間はあらん限りの智能を絞り努力を払って来た事によって、思ひもつかない文化の発達は促進されたのである。見よ勝った国でも負けた国でも、戦争後の目覚ましい発展振りは如何なる国でも例外はあるまい。仮に若し最初から戦争がないとしたら、文化は今以て未開のままか、さもなくば僅かの進歩しか見られなかったであらう。そのやうにして戦争と平和は糾(アザナ)える繩の如くにして、一歩一歩進んで来たのが現在迄の文化の推移である。之が又社会事情にも人間の運命にも共通してゐる処に面白味がある。之によって之をみれば善悪の摩擦相剋こそ、実は進歩の段階である。

斯うみてくると、今日迄は悪も大きな役割をして来た訳になる。といっても悪の期間は無限ではなく限度がある。それは世界の主宰者たる主神の意図であり、哲学的に言へば絶対者とそうして宇宙意志である。即ちキリストが予言された世界の終末であり、そうして次に来るべき時代こそ、人類待望の天国世界であり、病貧争絶無の真善美の世界、ミロクの世等名は異るが意味は一つで、帰する処善の勝った世界である。此様な素晴しい世界を作るとしたら、それ相応の準備が必要である。準備とは精神物質共に、右の世界を形成するに足るだけの条件の揃ふ事である。処が神は其順序として物質面を先にされたのである。といふのは精神面の方は時を要せず、一挙に引上げられるからで、それに反し物質面の方はそう容易ではない。非常に歳月を要すると共に、其為には何よりも神の実在を無視させる事である。之によって人間の想念は自然物質面に向く。茲に無神論が生れたのである。故に無神論こそ実は悪を作る為の必要な思想であったのである。斯くして悪が生れ、漸次勢を得て善を苦しめ争闘を起し、人類をして苦悩のドン底に陥らしめたので、人間は這上らうとして足掻くのは勿論、発奮努力によって苦境から脱れやうとした。それが文化発展に拍車を掛けたのであるから、悲惨ではあるが止むを得なかったのである。

以上によって善悪に就ての根本義は大体分ったであらうが、愈々茲に悪追放の時が来たので、それは善悪切替の境目であるから、悪にとっては容易ならぬ事態となったのである。右は臆測でも希望でも推理でもない。世界経綸の神のプログラムの現はれであるから、信ずると信ぜざるとに拘はらず、右は人類の決定的運命であって、悪の輪止りであり、悪が自由にして来た文化は、一転して善の手に帰する事となり、茲に地上天国樹立の段階に入ったのである。

(文明の創造 昭和二十七年)

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七月十五日

【御  教  え】
美術館や色んな事で「文明の創造」を書始めていたのが遅れたので、早く拵えて了おうと思つて又書始めたのです。根本的の事を書いたのです。つまり今迄は本当の文明ではない。本当の文明というのは斯ういうものだという事を書くのです。根本というのはつまり悪です。その悪を無くする。他の色んな文化は素晴しいものです。処がそれを悪に利用するからいけないのです。之を善に利用すれば大したものです。原子爆弾でも、あれを人殺しに使うから恐しいものなのです。あれを動力や何かの原(モト)に使えば結構なものです。原子爆弾を動力に使えば、石炭だとか油は無くて済むのです。何しろ豆粒位のもので自動車や飛行機を動かせるのです。つまり、悪を無くすればそれ丈で地上天国は出来るのです。今みんな困つているのは、人間の悪の為に困つているのです。だからその一番怖いのは戦争、病気。それから今の共産党の運動も、それから泥棒だとか、変な様な事で人殺しをするという様な事の因(モト)は、みんな悪です。で、悪でも、直接――火焔瓶を投げたり、まあ、破壊運動をするのは、之は分り切つた悪です。又泥棒したり色んな事の悪は分つているのですが、そういう事よりも、悪を善と思つてそうして悪を行う事、之が一番恐しい。やる方は善と思つて一生懸命やるのですから――。その内の親玉が、何時も言う通り医学です。「医は仁術なり」と言つて、非常に良い仁術と思つているのです。医学によつて病気を作り、それを悪化させて生命迄奪つて了うのです。之程恐ろしい悪はない。之程深刻な悪はない。この悪を人間から除けば悪は無くなつて来るのです。色んな誤つた思想だとか、破壊的な事とか――みんな病気です。精神的病気です。何時か、日本人は全部精神病だと説きましたが、つまり精神病にも種類があるのです。精神病らしいのは分るから病院に入れるとかするが、精神病らしくないのが一番怖いのです。で、病気の因(モト)というと、今度「栄光」に出しましたが、薬なのです。薬で血を濁すのです。濁すと、濁つた血が頭に行く。だから頭が悪くなる。頭が悪くなると、物事の判断力が正確でなくなる。どうも、実に判断が間違うのです。だから、今一番の何は――例えてみれば、政治家とか代議士とか言うと、普通の人よりか偉い人となつてますが、確かに偉くなくてはあれ丈の出世が出来ないのですが、その偉い人が、何かの時に――会議だとか協議する時、つまらない問題で毎日々々相談し議論し合つている。まあ、我々からみると五分位で分る事を幾日も何回もやつている。ですから議会が延期々々で延びるのです。今度の延期は四回か五回でした――。というのは判断力が悪いのです。どんな問題でも結論は一つです。一番良いやり方というのは一つしかないのです。それが、頭が悪い為に見附からないのです。というのは因は薬毒です。ですから、此間も言つた通り「上面(ウワベ)利巧の芯(シン)馬鹿」だというのはそういう訳です。だからどうしても薬というものを全廃する――無くなれば、頭はずつと良くなります。頭は良くなるし、伝染病というのが無くなります。あの黴菌というのは薬毒から湧くのです。黴菌でも、良い黴菌もあるし悪い黴菌もあります。良い黴菌というのは必要ですが、悪い黴菌というのは薬毒から湧くのです。それを知らない。発見出来ない。そういう訳だから、兎に角少くとも、もう少し人間の頭を良くしなければならない。教育も肝腎ですが、教育はどつちかというと上面を利巧にする事です。まあ物識になる事です。ですから、物識になれば判断力は良くなる訳ですが、処が芯の方が頭の活動力が悪いから、肝腎な物事の判断をするそういつた頭脳が働かない訳です。要するに頭脳の中心が働かないで廻り丈が働いて了う。処が薬というものを又馬鹿に信じているのです。新聞にも出てますが、今度出来たヒドラジットなんか、大した物の様に思つて飲みたがつてますが、態々悪くする――肺病を治さないものです。薬というのは全部麻薬です。一時良くするのです。丁度頭の悪い人が麻薬を注射すると、頭がはつきりして来る。だから小説を書くにしても、あれが流行つている。急ぎの原稿を書くのに、あれをやると馬鹿に良く書ける。それで中毒になる。それは麻薬丈ではない。一切の薬がそうです。食慾がないので、薬を飲むと一時増えたりして良い様に思えるのです。だから次々に飲んで、結局それが癖になつて段々中毒症状になる。然し、直ぐに大いに効くのは麻薬として取締つているが緩慢に効くのは分らない。発見出来ない。だから急速に効くのは麻薬として排斥するが、緩慢に効くのは良いとして奨励するのですから、この無智なやり方頭の悪さです。又それに慣れ切つているのです。それを教え様、解らせ様と思つて我々は骨を折つているのです。そういつた麻薬を、麻薬でないと思つている迷信です。それを言うと、こつちの方を迷信という。その位頭が悪いのです。だから現代人と言えば、少くとも脳病です。今「文明の創造」の根本を書いて居るので、その最初の書始めです。

(御論文「⇒文明の創造  天国篇」)(「⇒天国建設と悪の追放」)【註  栄光一六九号】

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七月十六日

【御  教  え】
今迄結核問題の方が、美術館や何かで、「文明の創造」も書きかけになつていたが、やつと暇が出来たので――暇が出来たというより、気持がゆつたりしたので又書始めたのです。それに就いて書き方を幾らか変えてやろうと思つて、序文の最初の――先ず基礎的という様な、そういつたものを二、三書いてみたので、一寸読ませます。

(御論文「⇒文明の創造  序文」「⇒文明の創造」)(「⇒天国建設と悪の追放」)【註  栄光一六九号】

未だ仕上げが出来ていないから、幾らか分り悪(ニク)いでしようが、大体の意味は分つたと思います。之は誰でもですが、悪というのは何故あるのかという疑問ですが、斯ういう質問をされた事がある。神は愛だ、慈悲だ、と。それなら、罪を裁く――罪を裁くといえば、人間が苦しむのですから、神様の慈悲だとしたら、最初から悪を作らないで、罰を与えたり苦しめたりしなければ良いではないか。それでは、神の慈悲という事が、何ういうものか解らない。という事を時々質問した人がありますが、それは全くそうです。で、私は言つてやつたのです。私は悪を作つた神様でないから、何ういう訳で作つたか分らない。その神様に聞いてみるより仕方がないと言つて逃げたのです。そういう訳で悪は何ういう訳であるかという事が分らないのです。それを分らせる為に最初は必要であつた。要するに必要悪です。今迄は悪があつた為に物質文化が発達したのです。若し悪が無かつたら、人間は未だ々々――智恵も之程にならず、もつとボーツとしたものであつたでしよう。仮りに、戦争が恐ろしいから、負けたら大変だと色々工夫してやる。そうすると一方の方で、悪人は大いに世界を自由にしようとします。最近で言えば、ヒットラーの様に――色々工夫している。それから泥棒があるから、泥棒を掴まえ様という訳で、警察と智恵較べをするのです。現に、今の破壊活動防止法案は共産党の方を何んとかしてやつつけ様。武器をどうして作ろうか、手に入れ様かとする。此間ピストルを何百か押えられましたが――。それから火炎瓶、竹ヤリ――之は原始的ですが、色々工夫している。そうすると政府の方では、破防法を作つたり色々な巣窟を探つたりしてやつている。之は智恵較べです。結局悪人と善人の智恵較べが凡ゆる面に出て来るのです。つまりそれに依つて人間は段々智恵が進むのです。それから今読んだ通り、色んな物質文化を発達させるには、神様があるという事を――つまり有神論では、神様が何んとかして呉れるという気になるから、どうも発達しないです。神様は無いから、何うしても人間の力で工夫して行かなければならないという事になるから、必要悪だつたのです。処がここ迄来れば、必要悪でなくて不必要悪で、反つて障碍物になる。そこで悪を打切りにして、之丈進んだ物質文化を利用して地上天国を造る。その時期が来たのです。時期が来た以上その根本が分つていなければならない。神様はそれを知らされたのです。そこで斯ういう文章を書いて世界中の人に知らせる。つまり之は天国の福音という訳です。キリストが言つた様に、「普く天国の福音は伝えられるべし、然る後末期至る」です。これから、先を説いていきますが、悪というものは打切りにする。何うして無くする――その打切りの順序を之から書くのです。そうして悪というものは無くなる。無くなるという事は、刑罰で無くなすのでなく、悪はつまらないという事になる。悪なんかやつても仕様がない。善の方が徳だという事になるのです。そういう事になるという事は立派な理由があるのです。それは之から段々説いていきますから分る訳です。そういう話は此位にして置いて――。結局、世界人類にその根本を分らせるという事が、之からの私の仕事です。

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七月二十五日

【御  教  え】
私は始終邪神と闘つているのです。だから一日と雖も何んにもなくて、せいせいするという日はありません。それからそれへと問題が起つて来るのです。ですから始終闘いです。冷い戦争と言いますが、まあ冷い戦争です。武器を持たない戦争です。それを始終やつている。ですから今でも裁判の三つや四つしているのですが、みんな悪との闘いです。邪神の方では、兎に角私が怖いので、あらん限りの事をやつているのです。ですから昔なら、キリストみたいに磔(ハリツケ)にならない迄も、遠島位はされた訳です。その点は今は有難い御時世になつてます。兎に角昔の様なひどい事はしないですから、余程楽に闘つて居られるのです。宗教というものはそういう風な運命がつきまとつているものです。反つて力のある宗教程余計そういう事をされる事があるのです。お釈迦さん丈は割合に無事だつたのですが、あの人は皇太子という位があつたので、社会が非常に見方を違えたのだろうと思います。お釈迦さん以外としては殆ど迫害されない宗教家は居なかつたです。だからして今迄悪い意味ばかりで考えてましたが、何か――つまり抑えつけると段々力を増すのです。無事で何んにもないと、さつぱり力は増さないのです。やつぱり神様は良い工合に――。考えてみると丁度一年置きになつてます。今年なんかは極く僅かですが、でも一つの句切になつた様な、多少の影響があるでしよう。あとは一昨年――二十五年。それから一年間をおいて二十三年です。そんな様な工合に一年置きです。ですからギユウギユウ押す――押すとこつちははね返る。力が増すのです。そういう風にギユウギユウやられていながら教団の方はドンドン発展して行く。今度は美術館も出来たのですから、その神様のやり方は中々面白いと思うのです。「文明の創造」も書きかけてますが、それに就いて悪という物は必要だつたという事を書いたのです。

(御論文「⇒天国建設と悪の追放」)【註  栄光一六九号】

それから昨年の事件に就いて、一つ言いたい事は、何うして起つたかという事は、之は教団を乗取ろうとする陰謀の一団があつた。陰謀の一団というと大袈裟だが、陰謀者があつた。之が中々智恵があつて、おまけに私は疥癬で何んにも出来なかつた。それで任かせきりであつた為に、その隙に乗じて教団乗取策を講じて、それには私と渋井さんを先づ追出すという事が一番の狙いであつた。それで、当局を巧妙な手段で動かしたという事は、悪智恵という――凄いものがある。到頭当局を動かして、その当時は、メシヤ教になつた当時で、メシヤ教というのは大変にけしからんものだ。之を調べたら何かあるに違いない。それに到頭乗つて了つて、それでこいつを大袈裟にやつてみようと、あゝいつた大袈裟にやつたのです。

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大光明世界の建設

主神が何の為に宗教を造られたかと言うと、宗教は彌勒出現迄の世界人類をして、或程度以上の堕落をなさざらしめんが為の必要的限定的の経綸であって、主神は一方悪の活動を許容され、物質文化を開き、一方其の悪に因る弊害を甚しくせざらんが為に諸々の人傑を出し、宗教なるものを弘通せしめ、善悪を巧妙に織られたのである。故に今日迄の経綸は善悪、明暗、美醜、相交りつゝ流転活動し、進歩し発達し来たのである。宗教は東洋が元であることがよく判る。然しこれが為、亜細亜諸国が亡びたのである。

一方今度は素盞嗚尊に命じて悪の世界を作られたのである。則ち体的文化であり、物質文化のことになるのである。この物質文化は西洋を中心として起ったのである。只今人類はこれが為非常に迷った。東洋は滅亡の状態となり、西洋は末期となり訳が判らんから、今世界中の古い時代の色々のものを見つけ出したのであるが、古い事は最早事済となりしことばかりにて、これから先の事が如何になり行くか判らんのである。

今迄の人の思想は善一方では出世することすら出来ない世である。

悪をなせば法律にふれてあぶないし、善をなせば出世が出来ぬ。此の為両方に迷い、ふらふらしているのが大部分の今の状態である。

昔から忠臣義士は皆不幸の最後を遂げて居り、是れに反して悪人が仮令一時にもせよ栄えている事は何であるかという疑問をもつことであろう。是れこそ大事である。 要するに、是れまで神様は悪の世界を許されたからである。故に何程か悪に荷担しなければ出世も栄えも出来ぬ状態なのであった。是位簡単なことが今迄判らなかったのである。

此の為に迷いが生じて来たのである。悪の強い半獣的思想が止まなかったのである。是が悪事も神様が時期の来る迄幾らか許されていたから出来たのである。所が主神が今回伊都能売大神に命ぜられて日本を基点として、大光明世界を作らせ様となさって居られるのである。

体的でなく、霊的でなく、善か悪か想像のつかない世界を改めて、昭和十年一月一日観音会がたち、善悪無差別、善悪不二の世界を造る事になったのである。今迄あった悪も善も何れも必要であったのである。

(昭和十年七月十五日)

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昭和十年一月一日

昭和とは日召和となる(平和)。日は天照大神のことであり、召は知食(シロシメス)という字(知召)。和は世界、又は大和である。十は結びである。

善と悪とを結べば悪はなくなるのである。
善を結んだ中心が則ち伊都能売である。
善悪を結んで火水(カミ)となる。

善悪結んで廻る十字の尖端曲りて(マンジ)(ギャクマンジ)となるのである。善悪結ばれし時より、悪は消えて完全なものとなるのである。

伊都能売大神様の世則ち大光明世界が造られるのである。宗教の卍は右廻りなるが、是が今迄の右進左退の世則ち悪の世界であったのである。

伊都能売の大神様は左進右退になるのである。
神音
天如神主観 天業開始と言う事になる。
真(スとなり)マコト、善、虚仮空、美、実相世界。

真善美の世界を造ると言う事は真はマコトである。今迄は虚の世界、仮の世界、空の世界である。一切空、仮の娑婆である。何故かと言えば善悪両方を許してあったからである。或目的のものを造る迄の仮の世界であったから仮の娑婆である。

真は霊返しで読むとスとなり実である。華である。いよいよ実を結ぶのである。又は統(ス)べる、皇(スメラギ)、 (ス)、統一する、一人となる。

一人は天皇であるから、昔から陛下のことを上(神)御一人と申上たのでもよく判る。然も此の御仕事は天皇陛下では御出来にならん。下万民がやらねばならん事なのである。

国常立尊は昔善一方で世界を治め様としたる為に、非常に他の神々に反感を買い、隠退遊ばされる様なことになった。

真の字を離すと直と人となる。真直な人即すなほな人、シン、心、中心、神、信とて非常に権威のある言霊である。

中心となると此度の御経綸を伊都能売の神様にお托しになった。是が観音様である。
中心日本は世界の中心である。麹町の中心は宮城である。

 どうしても観音会は宮城の側へ現われねばならんのである。
 十六の菊の御紋は、

即ち十へ稜威が出る形である。
世界の経綸の真の救いと経綸は御膝元から出ねばならぬ。どうしても出ねばならんのである。

観音会で自分が言うことは皆ハッキリしているのである。若しも今迄の教がハッキリしていたらどうかと言えば、是れにより悪が暴露するのである。暴露するとそれで世の中は進歩しないことになり、統一の事業は出来ない事となるのである。総てが国際的となり一度に世界に知らせる事の出来るのはラジオの出現である。ラジオの出来た事により、是で総ての準備が出来たことゝなる。

何事も是により世界的になったのである。

世界的救済、世界的宗教、是もいよいよ今出でざれば駄目だ。一人により世界統一せざれば真の平和は出来ぬ。今迄の色々の宗教は要するに無駄である。

帰一、一とは元の神様則ち主神の事である。それに帰する、主神に帰することであります。

(昭和十年七月十五日)