熟々現在社会を見る時、日進月歩の今日如何なるものと雖も、進歩から外れているものは一つもない。処が不思議な事には、人類に最も関聯の深い宗教分野のみは、些かの進歩もみられないで旧態依然たるどころか、寧ろその逆でさえある。何よりの証拠は既成宗教がよくいう言葉に、本道に帰れ、即ち開祖の出発点へまで戻れというのである。とすれば横道へ外れたから元の道へ戻すという訳で、仮にこれを繰返すとしたら何等の進歩もない。実に文化の進歩と矛盾する訳である。既成宗教に何等人を惹きつける力がなくなり現状維持に汲々たる有様は、其をよく物語っている。
成程、今日現存する何れの宗教と雖もキリスト教は別とし、その開教当時は、新宗教としての宿命ともいうべき迫害や圧迫に逢いつつも、兎も角新しい息吹きによって溌剌たる発展があり。華やかな時代も通っては来たが、年を経るに従って漸次沈滞の気運に陥りつつあるのはその殆んどであろう。とすれば、これは何によるかを検討する必要がある。
それはいうまでもなく、時代の進歩に沿わないからで、教祖の教を金科玉条として堅持する中いつか時代と掛離れてしまう。その結果、漸次溝が大きくなり、終に今日の如き無力の非難を浴せられるようになったのであろう。一切は原因があって結果があるとすれば、既成宗教たるもの大いに反省すべきであろう。何時までも超然たり得る筈がないからである。之に鑑み、本教の根本義とする処は凡てが進歩的である。時代に即している事である。本教が既成宗教的形式を度外視し、形式の為に要する時間や費用を避けるという事も右の点にあるからである。実際上形式の為の負担は何等の利益とはならないからで、神仏と雖も喜ばれる筈はあるまいからである。
以上の意味に於て現代人の生活をよりよく改善し、指導的役割を遂行する事こそ真の宗教の使命であるべきで、一言にしていえば、進歩的宗教こそ現代人を救い得る価値あるものというべきであろう。
(自観叢書十二 昭和二十五年一月三十日)