世界救世教

栄光

祝詞

掛巻も、綾に尊くいと高き、五六七大御神の御前に、謹しみ敬(イヤマ)ひも白すらく、昭和二(フタ)廻り五歳(イツトセ)の、秋の佳(ヨ)き日の足(タ)る日を、選(エラ)み定めて予てより、深き経綸(シグミ)の大御心に、天国此土に写しまさんと、その...
栄光

展覧会を観て(下)

次の二科会を観て唖然とした。私の頭脳は憤慨と悲観と惑乱でゴチャゴチャになってしまった。美を追究するどころではない、美などはありはしない、只醜のみだ、観るのさへ私は苦しい。此暑いのに遠い処まで来て苦しむとは何の因果か、画を観て憤激するとは世に...
栄光

栄光71~80号

■栄光七十一号 昭和二十五年九月二十七日・展覧会を観て(下)■栄光七十二号 昭和二十五年十月四日・祝詞・天国は芸術の世界■栄光七十三号 昭和二十五年十月十一日・どちらが迷信だ・新人たれ■栄光七十四号 昭和二十五年十月十八日・迷信の定義・正愛...
栄光

私の目をひいた絵

唯今度の院展で兎も角私の目をひいた絵が一つあった。それは小倉遊亀女の瓶花の図である。ガーデニヤの八重三輪を眼目とし、呉須赤絵の瓶にさし、二三の他の花を遇った、そのポーズも色彩も賞めてよかろう。特に余白を淡墨でぼかし、静物を引立たせた意図は心...
栄光

近来の作品

見よ、近来の作品を。日本絵具を油の代用にしてゐる迄だ。之は自己を生かさんとして、自己を殺す事だ。然し乍らレベル以下の画人層は自己満足でそれでいいだろうが、レベルの上に立つ画人は浮薄なる流行を追ふ事は出来ない、と言って超然たる事も出来ない。そ...
栄光

京都画壇を見る

茲で、当時の京都画壇を一瞥してみよう。当時竹内栖鳳氏は京都の画壇に鎮座ましまして、大御所的威を張ってゐたので、東の大観に対し西の一敵国の概があった。勿論京都派の有為の画人は、東京と同様栖鳳を追随したのは勿論である。然し栖鳳逝いて後、盲人の杖...
栄光

展覧会を観て(上)

私は今度久し振りで、上野に開催中の二つの展覧会を観た。一つは院展、一つは二科会である。どちらも現在日本に於ける東西絵画の代表と思ったからだ。そこで見たままの印象を、茲に赤裸々にかいてみよう。今迄多くの展覧会を見たが、今度程不思議な感に打たれ...
栄光

神仙郷の意義

今度、美術館を除き大体完成した此神仙郷に就て、実に深い大きい意義のある事を知らねばならないのである。といふのは、抑々日本の国を造られた神様の意図は世界の公園たらしむる事である。何よりも日本にある自然を見ればよく判る。日本位自然の風景、山水美...
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文化の創造

本教の名は、救世教となってゐるが、勿論最後の世の救の為に現はれたのであるから名実共に間違ってはゐないが、一名創造教と言ってもいい、それを説明してみやう。抑々現在迄何十世紀に亘って、人類は文化を進歩発展させようとして、営々撓まず、屈せず、総力...
栄光

新文化の構想

そうして、新文化の構想は已に充分用意されてゐる。之は人間の智慧や力でのそれではない、神が数万年以前から、着々準備され給いつつあった事である。而もそれは霊的のみではない、物質的事象によっても、私は現実的に視てゐるのであるから、絶対誤りはない事...