この病気は肉食病といってもいい位のもので、これを根本的に説明してみると、最初造物主は人間を造った時、その食物としては穀類、野菜、獣鳥肉、魚肉等夫々人体に適合した物を造られ、それを食う事によって、健康で生を営み得るようにされたのである。勿論住んでいる風土、気候や、人種別にも適応するようになっているのは勿論で、それが自然である。従って米国に於ける大いなる沃野と、其処に生産する穀類、野菜、獣鳥肉等が豊富であるのも植物性と動物性食物を適当に食えという訳である。又日本は陸地が狭く、海に取り巻かれているのは、魚肉を多く食えというのである。

処がその様な自然の実体を、科学という魔法使が打ち壊してしまい、人体を単なる物質扱いにした結果形而下的には進歩発達はしたが、形而上の存在である人間の生命迄も形而下に引き下し、栄養学等という飛んでもない学問を作り、皮相なる分析上から獣肉を推奨したのであるから、今日の如く肉食過多に陥ったのである。処が元来獣肉には一種の毒素が含まれており、この毒素が漸次集積し固結したものが真症癌であるから、自然はこの肉毒中和の必要からも野菜があるので、穀類は別とし副食物としては相当量野菜を交ぜなくてはならないのである。そうすれば決して癌は発生しない。としたら米国などは肉と野菜と半々位が丁度いい訳である。何よりも菜食多量の民族には癌はない筈である。近来日本に於ても癌はあるにはあるが、米国とは比較にならない程少数であるのは、全く日本は生活が低く、肉食が少ないからである。

次に注意したい事は、単に癌といっても真症と擬似との別がある。即ち右にかいたのは真症であるが、実は擬似の方がズッと多く、この点日本も米国も大差ないであろう。この擬似癌の原因は、無論悪性な薬毒の一種であるから、薬を廃止する事によって無くなるのは勿論、羅病の場合薬を廃め菜食を多くすれば長くは掛かるが少しずつ治ってゆくから、左程心配はない訳である。


胃癌全治して二十カ月の今日 佐賀県杵島郡武雄町若宮
帰一中教会 永吉範行(47)

昭和二十五年三月二十六日、突然の来客に応対して色々話を聞いておりましたところ、杵島郡北方町字久津具、原秀一様(58才)が実は胃癌との事、「ぜひ来て頂きたい」と申されましたので、行って見ましたが大分重態のようでした。それに一回の浄霊で、「こんな事で良くなるものか」と本人が思われたのか、断られたため、入信者でもない人だし、もし万一の事があったら面白くないと思っていた私の事ホッとした気持で帰りました。

それから四日後の三十日の晩に再び秀一様の子供様二人連れで支部(当時の教導所)に参られ、「全く申し兼ねますが二十七日以来医者に御願いしておりますが、四日間での衰弱が急速なため、医師も驚いたのか、家族の者に『一度立会いをさしてくれ』との事で、『それは立会いされてもよいが、立会いしたらどうなりますか』と尋ねたら『当然入院して切開手術を致さねばなるまい』との事に『手術をしたら大丈夫ですか』と問えば、『手術しても保証は出来ない』との事、『それでは手術しても、せずにも、どうせ助る見込みがないようでしたら手術は見合わせます』と言って医師を断りましたので、死んでも思い残しはないから、今度だけはぜひ神様にお縋りすると本人から申しますので、誠にわがままですけれどお願い致します」と言って来ましたので三十一日に行き「三日間だけ来て上げますから、その後もぜひと思われるようでしたら申して下さい。それでないと三日間で後は参りません」と言っておきましたら、三日目に「後も来て下さい」との事又三日間の日切りして行きましたが、その二日間は一日に牛乳五勺も咽喉を通らず、冷汗は絶え間なく出るので、今日は忌中の紙を戸口に貼ってあるのではなかろうか、又翌日も今日は貼ってないだろうかと家につくまでは気にしながら三日間行きましたが、三日目計六日目には大変楽になっておりましたので、どうやら安心致しまして、この様子では命を取り止めるのではないかと思いました。と同時に明主様の御霊徳と言い、御浄霊の偉大さと言い、全く人智では計り知れないところがある事を痛感しました。

なお日増に元気が出て来られましたので、後は又四日間続けて合計十日間行ってやり、十日目に私は「明日から別府にお参りして来ますから、三日間は参られないけれど、今度別府より帰って御宅へ来る頃は、寝ていたくはない位の気持になっておられると思います」と申してその日は帰りました。そして四月十三日再び行って見ましたところ、ちょうど私が家の前に近づいた時、本人は奥様に縋って、小便に立っておられましたので、想像通り大分良くなったなあーと自分の事のように喜びまして本人に会ってみますと本人はもとより家族の者の喜びは筆舌に尽されませんでした。

又ちょうどその日は隣家の○○という人が、同じ胃癌で、近所の噂では「原さんと○○様とどちらが先に死ぬか」とまで話に出ていたその人は、病院に行き手術を受けられたのが、その日(十三日)朝病院で死亡され、戸板に乗せられて自宅に帰られたとの事、誠に人間の一生というのは、どこで差がつくか判りません。その後は時々浄霊に行っておりましたが、その年の秋の農繁期より発病前と変らぬ仕事をしておられ、全快後は一年八カ月の今日に至るも、何事なく元気で働いておられるのを見ましても、御浄霊により恢復したのは、再発の心配皆無の事が判ります。

なお全快直後に御報告申しあげるべきはずのところ、果して一年後にも何事もないかを確めて、との本人の意志により、約二十カ月後の今日まで御報告を延した事につきましては、重々御詫び申し上げますと共に、入信日浅きお方の御参考にもなる事と思い、ここに御報告さして頂きます。

明主様有難うございました。

(昭和二十七年二月一日)


愈々駄目だと思った胃癌より救われた喜び 佐賀県神埼郡東背振村大字大廻
帰一中教会 古川三郎(54)

私は現在ごく田舎の一農夫であります。若い時は種々な役人生活をしておりましたが、昭和八年より郷里で農業に従事しております。慣れない労働のためか又は若い時に大酒を飲んだためか、胃病に悩まされ常に薬を離した事がありませんでした。ちょうど二十五年六月より病気は急に悪化し、労働に堪えないようになりましたので、あちこちと病院通いは勿論、人に話されないような草根木皮を服用したり、その暇には神様参りを致しましたが一向に効果なく、身体は衰弱するのみで、精神まで萎縮しました。

ある日『民間家庭療法』という著書を読んでおりましたところ、私の病状が胃癌そっくりの症状でありますので、二十五年八月保健所で診察を受けましたところ、胃癌だと直接言われましたので、私は吃驚仰天死刑の宣告を受けたような気になりました。このような気持は経験者でない限り分らない悲しみと思います。右のような状態で、私もいよいよ駄目だと絶望的な気持になりましたものの、子供等の将来の事が心配でなりません。親が子を思う事は誰しもの事でありましょうが、死病を担いでいる親の心は又格別の事であります。故に私は田畑、山林、家屋等の家財台帳やその他必要事項を記録し、家の沿革史として子供等の将来の参考資料として残す事にしたのであります。しかし元来勝気な私はどうかして病気を征服したいと色々と苦悩し、神経衰弱の一歩前までになりました。

しかし神仏はまだ私を見捨て給わなかったのでしょう。二十六年正月、ある用件で隣村の中牟田様方を訪れましたところ、偶然にも光明如来様の御利益を承り、しかも中牟田様は既に入信しておられかつ又、幸にも佐世保支部より矢川先生が御出になっておられましたので、早速御浄霊を御願いし、続けて七回の御浄霊でほとんど恢復(かいふく)にむかい、その後とぎれとぎれに四回程御願いしましたところ完全に恢復し、本年は春の副業から麦の穫入、田植と働き、今では体重も病気前と変らないように肥え、悩み続けた過去を考えますと無駄な事ばかりだったと思います。全く光明如来様の御利益が不思議でならず、ただ感謝の心持で一杯であります。

ただ今では一家円満農業に励んでおる次第であります。光明如来様は私の身体を造り直して下さいました。なお絶望していた気持まで朗らかに更生さして戴きましたが、私のごとき田舎者の無学では感謝の意志さえ表示出来ませんので、以後はこの有難い光明如来様の御手におすがりして、病気や貧乏の色々ごたごたのない立派な自由国を作りたいと思います。終りに光明如来様へ御導き下さいました中牟田様、矢川先生に御礼を申し述べ、あわせて私と同じ様な病で悩んでおられる御方がありましたら、ぜひ一日も早く御利益を御受けなさるよう御奨め申し上げます。

明主様誠に有難うございました。

(昭和二十六年十二月一日)


妹の絶望的子宮ガンを救われし私の喜び 北海道中川郡幕別町糠内市街
旭光中教会 角まつ子(43)

数々の御守護を戴きました中で、御救に御縁なくば今頃この世の人でないでありましょう私の妹の救われし喜びを、謹みて代筆にて御礼申し上げさせて戴きます。

ああ、思い出すさえ恐しき子宮癌の妹、七歳を頭に四人の子供を残して主人は出征し、過ぎし事ではありながら込み上げて来る涙をどうする事も出来ません。その後長い月日は流れ、昭和二十三年十月二十日弟は病気のためシベリヤより帰還致しました。その間妹の苦労は申すに及びません。やれやれと安心も束の間、妹は子宮癌のため次第に衰弱致し、四、五人の医者の診断を受けたところ「完全な子宮癌で大分進行している」との事、妹の事ながら私は生きた心地無く、その後親戚と相談の結果、札幌大学病院に入院致す事になり、私は医者では治らぬと心に思いつつも一人ではどうする事も出来ず、その年の十二月入院大手術を行い、子宮、喇叭管、卵巣を除去し、左骨盤も削取りました。

翌年三月帯広に帰郷致し、専門医院に入院、色々良いという手当をしておりましたところ、又再発との事、再度札幌大学病院に入院し、その後は日増に悪化する許り、私は二人の苦労を思う時、たとえ半年一年でも必ず良くして頂けたらとの一心から、あらゆる神様に御願いしましたが、その度に「幾ら神様でもこのような人は助けられません。もうとうにこの世にいない人だ」などと申され、胸が一杯で御礼の言葉も出ず、頭を下げ街路に出ましたが、止めど無く溢るる涙を拭う気力もなく夕方我家に帰りました。

私の家は妹の家(帯広)より八里程離れたところで主人は郵便局に勤め、私は別に衣料雑貨等を販売致しております。ちょうどその夜、いつも局の方に御出になる入信者の岡様が私の家に御泊になり、夕食後妹の話が出ましたところ「それでは帯広に良い先生が内地(本州)より来ておられ、生まれつきの片端以外何でもよくなるとのこと、早速試に病気で苦しんでいる方々に御知らせしましたら、皆次々と良くなり大変喜ばれました」とおっしゃいましたので、本当に立派な神様である事が分り、妹も治して戴けると思っております内、妹も病院では治る見込なく、近く札幌より帰る由の通知を受けましたので、恐る恐る帯広の先生に御願いに行き詳しく申し上げますと「楽になります」との事、「ちょうど二十九日本部の先生が御出になりますのでその折御出下さい」と申され、本当に飛び立つ思いの嬉しさで、早速弟にその事を話し、妹に二十九日帯広に帰って来るように電報で通知致しました。中二日間が待遠しい事、一カ月も二カ月も待つ程にて、本当に妹がもう救われたように思えて力がつきました。

二十九日朝帯広に着きました。その姿、私の妹とは思えぬ程痩せ衰え、この世の人とは思われませんでした。早速支部へハイヤーで参り、有難き御話を聞き、妹の体が重体ですので皆様のお先に御浄霊をして戴きました。御参りに来ていた信者六十名程の方々は妹を見て異口同音にこの人この体とあっけに取られておられました。少し気分が良い様に思えましたので、宗宮先生、小野様に毎日来て戴くように御願い致して帰りましたが、とても心配でいつも電話で御尋ね致し、又出帯致して様子を御伺い致しました。先生は「そのように妹様思いの姉様でしたら、貴方が御守様を戴いて苦しんでいる妹様を帯広に来る度に御浄霊をして上げれば一層に楽になります。誰でも出来る事です」と申され、何も知らぬ私は不思議に思いつつ入信させて戴きました。

早速妹が十一日間便通なく苦しんでいるので二、三十分御浄霊をしましたところ、すぐ両便も多く出ました。本当に私ごとき者に何という尊き力が戴けたのだろうと、急に生まれ変り、闇より明るみに第一歩を踏出した気持、ただ有難さに感謝する許りでした。その頃は大手術後癌が未だ残っているとの事で、ラジウムやレントゲンで焼き、余り強過ぎたため腸、尿道も焼け切れて肛門まで固くなり、水分も出なかったのです。内臓で小便も大便も一緒になって膣より出ていたのです。妹もその後色々の変化があり、二週間目頃より多量の出血が二、三回ありました。私は癌が取れて来たのではないかと心の中で喜んでおりましたが、家族や親類の者は御浄霊の考など毛頭なく、医者よ薬よと大騒ぎしているのです。私は暇さえあれば御浄霊をさせて戴いておりました。

先生に私が御願い致して帰れば妹が断り、次第に痛みも激しくなり、昼夜眠る事も出来ず、足一本自由にならぬ妹が苦しさに部屋中這廻りました。強力な眠り薬もモルヒネも効果なく、夢遊病者のごとく苦しみ、「こんなに苦しんでまで生きたくはないから浄霊などしていらない」と言い、痛み出して七十日位になりますので骨と皮ばかりでした。四度目の「危篤」を受けて行きました十一月四日にはもう虫の息でした。一生懸命御浄霊をさせて戴き、心の中で今晩必ず宗宮先生の御供をして御面会に行き、明主様に御願いに参ります、と固く決心し、出発の用意は致してみましたが、その反面留守中もしやの事があってはと心配しておりましたら見違えるように妹が元気になり「御姉様大丈夫、心配しないで行って来て下さい」と言うのです。私は驚くの外はありません。このような御守護を戴けるとは何と有難い事でしょうと思い出発致しました。

八日の御面会で明主様に御質問致し御浄霊法を御教え下さいました。勿体なく嬉しいこの胸の中は何と申し上げて良いか分りませんでした。一週間以上の旅行なので、この前の時は疲れが出て一カ月床につきましたが、今度は何ともなくむしろ元気で妹の家へ帰りました。母に様子を聞くと「何も頂けなかった妹が三度の食事も待兼ね、間食までしている」との事、私は嬉しくて嬉しくて早速明主様に御礼を述べ、妹を見ますと一週間位でこのように太り、元気な姿、私は無言で坐ったまま閉じた目より熱い涙が止めど無く流れる許りでした。

それよりは日増に快方に向い、床についたまま胸の上で主人と子供四人のセーターを編み、丹前の仕立と冬仕度を一人で整え、正月も楽しく過させて戴きました。しかしまだ肛門は萎縮したきり膣から許り便が出て、汚物が溜ると腫れたり爛(ただ)れたり致し苦しみますので、再度御面会に御参りし、御質問致し御浄霊箇所を教えて戴いて帰り、二、三回御浄霊をさせて戴きました。三日目に肛門より便通あり、重ね重ね御偉効誠に有難く感謝の日々を送っております。妹も今は御仕事も出来、毎月の支部参拝にもお参りさせて頂いております。

今後は明主様、大光明如来様に感謝を捧げ、大恩の万分の一なりとも報わせて頂く覚悟です。誠に有態う御座いました。妹に代り御礼をのべさせて戴きました。有難う御座いました。謹みて御利益の一端を拙なき文筆に御報告させて戴きました。有難う御座いました。重ね重ね御礼申し上げます。

(昭和二十六年十二月二十三日)


死を宣告された子宮癌より蘇りて 島根県出雲市平野町
隆光中教会 福島かつ(58)

昔より命あっての物種と申しますが、全く私こそ幾つあっても足りない尊い命をお恵み頂きました幸福者で御座います。お蔭様で今日この頃は可愛いい孫達から「オバーチャン、オバーチャン」と、まといつかれながら楽しく暮しております。ああ、思い出してもゾッとするような、医者の死の宣告より蘇らせて頂きました御報告を拙い筆をもちましてつづらせて頂きます。

常日頃腰痛を覚え、少し無理が過ぎると腰を伸ばせないことも御座いましたが、鍼灸などで一時しのいでおりました。二十五年秋頃より相当量の下り物があり、塊りも出ていましたが烈しい痛みもないので、案外で過しており、年を取ってもかえって若返ったのか、また月経がありはじめたと思って二、三カ月過すうち停止し、二十六年四月下旬より急に下腹部がこわばり、腰部も痛く「それほどに難儀なのは子宮が悪いに違いないから、ぜひとも医者に診断して貰いなさい。私の家のすぐ近くのおばさんは、ちょうどお母さんのような症状で医者の診断により手後れと言われ、とうとうこの間死んでしまったから、お母様もとにかく一日も早く診て貰いなさい」と、里帰りした娘にすすめられ、四月二十三日選挙の日、息子の自転車に乗せて貰い投票をすませ、午後病院へ行きましたら医師は私には「子宮にちょっとした腫物が出来ているがたいしたことはない。それに他の病が手伝っている」と言いましたが、息子や家族の者には密かに「子宮癌で最早手後れで手術しても駄目だし、このまま放って置いても半年はもたない」と死の宣告を下しておられました。

御本人は知らぬが仏で全く安心した気持で家に帰りましたら、自転車の振動が烈しかったのか、下腹部に激痛起り苦しみました。次第に下剤や浣腸せねば便が出にくくなり、ついに肛門が開いてしまって、浣腸しても薬剤がそのまま出てしまい、下剤も効かなくなりました。食欲もなくなり、親戚のものも心配して「どこそこの祈祷師はよくあてるから見てもらえ」「どこでおがんで貰ったら一ぺんで治った」などといろいろ心配してくれるものもございます。

その絶体絶命的状態の時、近所の井上さんとおっしゃるメシヤ教の信者さんがお見えになり「おばさん、信仰のお力でお蔭をいただく事が出来るが、御浄霊してあげようかね」と御親切に言われ、こちらも苦しいときの神頼みという気持で「よい信仰をしていなさるならおかげを受けさせて下さい」と、初めて御浄霊をお受けしました。手を一尺も二尺もからだより離してじっとかざしているだけなのに二日、三日続けて貰ううち、ただなんとなく気持がよいように思いましたので、ぜひとも大社町の先生に御依頼したくお願い申しましたら、御多忙中にかかわらず、二十二日お出向きくださり、御浄霊をお受けしましたら、まあ、なんと今の今まで十分と待てない位お小用が近かったものが、ただの一度の御浄霊で二時間以上も間があり腎臓部をしっかり御浄霊して戴きましたら、大変楽になり、翌朝十四、五日も出なかった宿便も排泄され、お小用をした前後のさすような激痛もずっと軽くなり、医者より「精がつかないと弱ってしまうから喰べなさい、喰べなさい」と幾ら言われても、どうしても喰べられなかったのも一ぺんに解消して、大変美味しく喰べられるようになりました。

三度目に作中先生に来て頂きました折にはからだの様子もすっかり快くなり、お帰りの時は門の外まで出てお見送りしたくらいで御座います。六月八日までに八回お出で下され、その度毎に余りにも見違える程良くなって参りますので、先生も大変お喜びになりました。家で御浄霊して頂くように息子が御守様をお受けするはずでございましたが、八日には井上さんの自転車に乗せて貰い中教会御本部まで御礼参りさせて頂き、私が御守様を頂くまでに快癒してまいりました。当日は会長先生にも御浄霊戴き、参拝の皆さんにもこんなにもおかげを頂きましたということをお話し致し、帰宅しましてからも順調で御座いました。

その後一、二カ月間は黄白色のドロドロした悪臭物が時たま下りることも御座いましたが、ひどい出血もなく、三カ月目には近くの町まで車を引いて野菜売りに出かけましたら、私の事を「もう駄目だろう助からない」と噂していた人達は皆ビックリして、「どうして治ったか」と尋ねられました。嫁いだ娘が私の診断をして頂いた病院に行きましたら、医者から「近頃お母さんはどうですか」と尋ねられたので「ハアおかげさまで大へん元気で働いております」と申しましたら、しばらく手を休めて「ヘー」と眼をパチクリ、開いた口が塞がらないようであった由でございます。ほんとうにお蔭さまで患う以前にもまして健康で、家族の者もその快癒に目を瞠(みは)り感謝致しております。

明主様の御慈悲の程厚く御礼申し上げます。

(昭和二十七年七月一日)


関節リューマチスも治り瀕死の直腸癌患者癒ゆ 山口県大島郡小松町
大原中教会 木村辰雄(26)

本教に入信致しまして未だ日浅き私が、不肖の身も省みずあえて拙筆(せっぴつ)を執らせて戴きましたのは、余りにも有難く尊い奇蹟の数々を戴き、自分一人の胸に秘めて置きます事は勿体なく、拙(つたな)き筆ながら奇蹟の続出とも言うべき私の体験を記述する事によりまして、皆様の御信仰御奉仕の一助ともなりますれば幸と存じました故と、今一つはジャーナリストの科学万能主義と唯物論者の無神論に対して、信仰の醍醐味と、本教の御浄霊が科学に優越せる事実を示し、真の宗教の在り方と、存在の一端でも認識して戴きたい一念からでございます。

私が本教の存在を知りましたのは、肋間及び坐骨神経痛、関節リューマチスにて病床一年有余、医者よ、電気よ、鍼よ、灸よ、指圧よ、とありとあらゆる治療をつくしましたが経過ははかばかしくなく、手足は麻痺で紫色に変色致し、記憶力は衰え、眼はかすみ、朝に夕べに激痛高熱の苦しみは、青春の夢も希望も奪い去り、生への意欲すら起らない暗黒の世界に投出され、放心状態に陥りました。ただ、苦痛と高熱に耐えかね、注射、指圧、電気治療を日課のごとく繰返していたに過ぎませんでした。

それは昨年二月中旬の事でございました。兄嫁の里の母から聞いて参りましたと高本先生がお見えになり、御浄霊の有難いことについてお話し下され、「とにかく一週間程総ての治療を一時中止して御浄霊を受けて御覧なさい。きっと治りますよ」とおっしゃって下さいました。元来私はマルクスの共鳴者にて、信仰のシの字も嫌いな無神論者で今から考えますと実に恐れ多い事ながら、いか程有難いか知らないが、現代医学の最高技術によってなお根治不能とされているこの病気が、ただ手をかざすだけで治ってたまるものか、これこそ迷信邪教だと、到底信ずる事は出来ず、ただ試してみるのも一理だとばかり御浄霊を受けました。

やがて三日目の事でございます。無神論者の私にも遂に神の実在、奇蹟の実態をまざまざと見せられる時がやって参りました。今日まで一年有余、風雨もいとわず毎日往診して下さった医者を無下にことわる事も出来ず「昨今は苦痛も少く大分いいようでございますから、暫く注射も薬もやめてみようと存じますがいかがなものでございましょうか?薬注射も量や度が過ぎると反って反応が現われ、手足の麻痺凝結を招くのではありませんでしょうか」と婉曲(エンキョク)に往診を辞退すれば「それは素人の浅慮と言うもの、医者のする事に間違いはない。悪いようにはせぬから病気は医者に任せなさい」とばかり相変らず往診に見え、注射をしておりましたが、高本先生の一念が神に通じましたのか、御光の入りました体内には、科学者たる医者にも犯すべからざるものがありますのか、注射針を差し込めば曲るか折れるかして容易に針が差し込めず、六、七回目にやっと針を差し込んだかと思えば、今度は注射液が流出して効果なく、医者も看護婦も当惑顔、そしてさも不思議そうにある一点を凝視しております。そこには高本先生が神様の御軸を掲げるために打たれた釘があるのです。その日はそれでお帰りになりましたが、その翌日のこと、雨の中を往診に来て看護婦に注射の用意をさせ、注射液の入った注射器を手に取り、ジーッと考えていましたが、突然「経過良好の由だったね。ウーン、今日は注射を打つのはやめた」と言って早急にかえり仕度を始めました。それには看護婦始め一同驚きました。又帰られるときの挨拶が「御大事に、悪くなりましたらすぐお知らせ下さい。早速御伺い致しますからね」と形式的に、そして神様の御軸を掛ける釘が目にとまった途端、「いやいや私を招く程の事はなく元気になられ、歩いて病院まで来られるようになるでしょう。いやいやもう二度と医者の御世話になる事はありませんから御安心」とばかりほうほうの体で帰られました。鳴呼! これが奇蹟でなくて何でありましょう。御守護の偉大なるかな、今こそ神の存在と奇蹟の実体をまざまざと見せつけられ、大いなる神様の御恵に家族一同感謝感泣致しました。

その日その時より、私の頑な心も一変致し、今までは馬耳東風と聞き流していました善言讃詞を唱え、御神書を熟読致す事によりまして、未だかつて持つあたわざりし安心感と、信仰の醍醐味を玩味させて戴き、青春の夢と希望をとり戻し、幸福な楽しい日々の訪れとなりました。御浄霊により、紫色に変色していた手足、かすんでいた眼、記憶力の喪失も日々快復致し、一週間目には、これが一年有余も就床していた体かと思われる程の健康体に返り、坐る事も出来なかった関節の屈折も自由となり、一時間の静坐にも、一里の道程も、さしたる苦痛を感ぜず耐え得る程となりました。手足の麻痺及び変色、眼のかすみ、記憶力の喪失等はすべて薬毒のためであった事が理解出来ますと共に、薬毒がいかに恐しいものであるかを悟り、今まではそれを有難く頂戴していたかと思うと身震いいたしました。

当月二十日の御祭には、母と二人で参拝致し、早速入信させて戴き、地上天国建設のため人類救済の一大御神業に微力ながら日々御協力させて戴いております。御浄霊をさせて戴きますと次々と奇蹟が現われ、奇蹟は奇蹟を生み、いよいよ御神業の偉大さを知らされ、益々一層の御報恩の念を厚くさせられます。左にその例を挙げまして、私の体験記の拙筆をとめさせて戴きます。

ある老婦人は直腸癌にて就床一年有半、食欲もなく青白き顔面には生色なく、名医が高貴薬珍薬をとあらゆる治療を施せど、悪化の一途をたどるのみにて、死を待つのも時の問題という哀れな状態でありました。が、高本先生が行かれまして御浄霊二日目には食事も戴け、便所にも歩いて行かれる程になりました。一週間目には床上げも炊事もしております。私が一週間後に参りました時には医者が 「これは不思議、お腹のかたまりが無くなっている。これは癌ではありません。不思議な事もあればあるもの、私が医者として癌患者を扱った事も多いが、こんな状態、こんな変化をきたした患者は一人もありません。一つ研究のため診察だけでもさせて下さい」と手を合わせ医者が患者に頼み込んでいる珍風景、私は心から「明主様有難うございました」とお礼を述べさせて戴きました。

明主様、どうも有難うございました。

(昭和二十七年四月一日)


直腸癌より救われて 東京都世田谷区玉川等々力
長生中教会 豊田政五(58)

明主様大いなる御守護を戴き謹んで御礼申し上げますと共に、先頃娘の病気も治癒させて頂き、又私も癌という恐しい病魔に侵され、罪多き私も御光に浴す事が出来、救われました事を御報告させて頂きます。

去る七月医師より直腸癌との診断を下された時の家族の驚き、まだまだ自分自身でしなければならぬ仕事が残されている現在、死に直面しながらそれを感じる事は無理でありました。医師の言には「この癌は手後れだから手術しても三カ月しか生命は請合えない」との事、それまでは申訳ない事ですが、娘が救われているのを見ておりながらメシヤ教の真の救いのお力というものが分らず、親族会議に又他の病院にと迷っておりましたが、家内と娘の余りの奨めに、「私も御浄霊をお願い致したい」と話したのが動機でこのような御守護を頂けるとは、ただただ感謝の言葉あるのみで御座います。このように何不自由なく外の経営にたずさわれるようになりました気持は、筆や言葉では良い表現が出来ませんがただ思いのまま書かせて頂きました。御讃歌に

盲ほど 儚なきものは世にあらじ 近処の宝知る由もなく

の明主様のお歌のごとくこのように心配もなくお救い頂けるのに、なんと回りくどい話ではなかったでしょうか。

現在では近所の人もびっくりする位元気にさせて頂き軽労も出来るようになりました。今後は私の戴いた大いなる幸を他の病に悩める方々にお知らせして、共々に喜びを分ち合いたいと思います。

明主様御守護の程有難う御座いました。謹みて御礼申し上げます。

(昭和二十六年十二月十一日)

(アメリカを救う 昭和二十八年一月一日)