教 え の 光

 本冊子は、曾つて機関紙「地上天国」に毎号掲載した「妙智之光」の一部を、多数信徒の要望に応え、集録せるものである。

  周知の如く「妙智之光」は、明主様が信徒の質疑事項に対し、打てば響く即座の御開示の記録であるが、此御伺い事項はひとり信徒のみならず一般人の誰しもが最も知りたい、然し既成の宗教や学問では、徹底的解決なし得ぬ謎や、疑問、難問のみである。

  それ等に対する、平易簡明透徹の御開示は高い神智、輝く珠玉の一齣々々である。賢愚老幼の別なく、何人と雖も一読大覚を得て天地開明の喜びに浸り、三界の真理は髣髴として把握せしめらるるを疑わぬ。

  此意味に於て、本書は高貴なる御教の辞書であり、滋味津々として尽きざる異色ある福音書である。

  敢て、諸士の必携を望む次第である。昭和二十六年五月

  編  集  者  識

………………………………………………………………

【お伺】真理に就て

【御垂示】之は一概にいえない。真理は其人の見方と立場によつて異う。神から御覧になるのと人が観るのと違うし、神でも上中下の位があるから、下位の神の見らるる真理と、最高の神の見らるる真理とは又大いに異うのである。人間が真理と信じている事で、神から見て逆理の事も往々ある。森羅万象の一切と其動きは真理ならざるはない。何となれば万有全体の上にまし座す神としては、その全体が御自分の物であるからである。又一切を二つに分けると、その各々の真理は陰陽相対的に異つてくる。その二つのものがそれからそれへ幾つにも分れるに従つて、それぞれ異つてくる。要するに小さく考えるのと、大きく考えるのとでも異つて来るのである。

  人類社会に於る真理、それはどうしても、正しい事を基本にしなくてはならない。宇宙の真理とても善を主に動いているからである。もし悪を真理とするとすれば人類社会は既に崩壊し一切は滅亡していた筈である。そうならないで現在の如く栄えているのは、少しづつでも正が勝つている事を証拠立てている。それによつてみても善が栄えるのが真理であるという事に帰着するのである。

  然し乍ら人類社会に善なる者のみで、悪なるものが無かつたならば、今日の如く文化は発達し得なかつたのである。悪があつて善の活動を妨げたり苦しめたりする事によつて善の力を強め、その進歩を促進せしめたのである。以上は大乗的な説方であつて或程度の覚りを開いた人に説くのは差支えないが、小乗的な人にはその真意は解し難く、誤解を招く懼れがあるから注意すべきである。

………………………………………………………………

【お伺】人類には如何なる訳で悪があり、苦がありましようか。

【御垂示】之は人類を造つた神様でなくて造られた人間では判り得べくもない。私も造られた人間であつて造つた方ではないからその真意は判らぬが、唯だ凡その想像は出来る訳で、無論何かの必要があつてそういう風に造られたものと思う。

  元来主神は全宇宙そのものがその御所有物であつて善も悪もないが、神典にある如くその主神から分れて霊系の祖が高皇産霊神、体系の神が神皇産霊神となられた。之は陰陽の神であり、陽陰はすでに善悪である。そして悪に属する神を邪神、善に属する神を正神という。この善悪が始終摩擦し争闘しつつ人類は生成化育し、今日の如く輝しい文化の発達を見たのである。此点が人間としての考え方の難しい所で、悪人を造つておいて裁くなら初めから造らなければいいではないか。審判などといつて人間を悪い事をするように造つておき乍ら、罪を罰するとは無慈悲不合理だと言う人もあるが、私としても造られた側に立つているので神意を知り得べくもないが、何の為に悪を造られたかの想像はつく。それは確かに悪によつて善が活動し文化が進歩を遂げたという事実である。

  然し乍ら、人間として悪い事をすると悪い結果が必ず来る。即ち因果応報で、之は間違いのない事実であり、真理である。どんなにしても善でなくては栄えない。  人を苦しめれば自分が苦しむ。人を幸福にすれば自分が幸福になる。そうすると善い事をした方が得だという結論になるから、人間は善事を目標としなくてはならぬ。  次に苦しみも何かの必要があつて造られたもので、現実の苦は如何にして祓除し得るかである。それは神から苦悩の元たる曇を除つて戴く外はなく、神仏の光によつて除つてもらうのである。本教の浄霊はその為に出来たもので、此浄霊により神の光が放射され曇は解消し、苦悩はさつぱりと除れるのである。そうして此曇は信仰と徳の程度により、大きくも小さくも除れるのである。邪念や言葉の罪などは、朝夕神仏を礼拝する事によつて大方は浄められるが、それのみでは本当でない。やはり人を幸福にする事が肝要で、信仰は拝むのみでは本当に救われぬ。先づ多くの人に喜びを与えなくてはならぬ。

………………………………………………………………

【お伺】宗教と科学の関係、及び両者とも永久に必要でしようか、どちらか不要になる時が来るでしようか。

【御垂示】之はどちらも不要なものでなく、どこまでも進歩発達すべきものである。少くとも宗教が無かつたら人類の罪穢は溜るのみで、それによつて生ずる毒素の堆積は人類を破滅する事になる。それは浄化の為大天災が続くからで、又科学がなかつたら人類文化は進歩しない。

  宗教と科学は同じものである事は既に「信仰雑話」で説いた。従而、科学で説明の出来ない宗教は本当のものではなく、同時に宗教で説明出来ない科学も本当のものではない。

  宗教を度外視した科学の発明は恐ろしい事はいう迄もない。科学の進歩が人類の幸福と伴はないのは其為である。今までは宗教を閑却し寧ろ否定したが科学の進歩に伴い宗教も一緒に発達して行かなくてはならぬ。

………………………………………………………………

【お伺】原始時代と原子力時代とは文化の基礎は非常に異つておりますが、新時代への出発と言う意味に於て多くの共通点を有している様に思われますが、御教示をお願い致します。

【御垂示】これも一理ある。今は新文化の原始時代である。以前のは人間の出来たての本当の原始時代であつたが、今度は人間が一大飛躍して高等動物となる。その原始時代で、之からは今迄のように喧嘩したり噛み合いしたりするような動物性をなくし本当の平和時代になるのである。

………………………………………………………………

【お伺】霊子が人間生活に如何なる関係があるでしようか。

【御垂示】これは言うまでもなく霊子がなかつたら、凡ゆる生物は死滅する。科学的にいうと電子、原子、霊子の順に微粒子になつてゆく。勿論霊子は最微粒子である。音は電子の体で粒子が大きいから、音の運動は遅いのである。

………………………………………………………………

【お伺】昭和二十四年六月九日の中部日本新聞に次の如き記事が掲載されましたが、文中脳波とありますのは如何なるものでしようか。

「脳波で交通安全」

  何故かということはまだ判らないが、人間の脳から脳波(一種の電波)が外部に発散する。一秒間に二つ波うつのである。この波をしらべるとなにか考えごとをしている時には波の高さが小さくなるし、眼をつぶつてボンヤリしていると波は大きい。しかも睡気をもようしかけると更に波は大きくなるのだ。そこで脳電流を特殊な電鈴に流れるようにしておけば眼ざめているときには電鈴がならないが眠くなるとなりだす。脳波が大きく波うつからだ。これだけの現象ではあるが、こんな電鈴を電車、バス、飛行機などの運転手の頭に取付けて、眠気による交通事故を防止する方法がすでにアメリカで実行に移されたと言われる。

【御垂示】人間の霊は外部へ発散したり集中したりする。仕事する時は集中し、眠る時は発散する。であるから生霊の憑く時など非常に眠いものである。神道の行事に鎮魂という言葉があるが、之は、霊が方々へ放射し分散されたのを(気のちったのを)本元へ集めるのである。霊が還つてくると気が鎮まり、いい気持になるもので、其中頭の霊が一番よく出る。以上の如く霊が放射する。それが脳波であつて特に頭だけ出るのではない。全身から放射するのだが頭からが一番余計に出る。

………………………………………………………………

【お伺】現在の哲学が唯物主観的立場にある以上、迷学というべきではないでしようか。

【御垂示】哲学は本来唯物主観的であつて、その一歩上が宗教である。つまり科学と宗教の中間が哲学で、どちらかといえば唯物の方に近いものである。だから哲学には疑問が多く結論がない。それで哲学へ入ると迷いが深くなる。要するに哲学は疑問を並べたものである。故に哲学は一種の参考としてみるのはよいが、それによつて万事解決しようとしても駄目である。そうでないと懐疑に陥り易い。

………………………………………………………………

【お伺】宗教、芸術、文化の誠とは如何なるものですか。

【御垂示】如何なるものにも善悪正邪があり、宗教でも正教と邪教がある。全然邪教というものはないが、大抵は堕落の結果横道へ外れたり、外道に堕ちたりする。  今迄は最初は良い目的で始めたものが、中途から邪神に利用される。即ちその宗教が力が弱いから邪神に負けるのである。世間は新しいものを邪教視するが、新しいものには良心的なものが多く、比較的古いものに邪教が多い。古いもの程黴が生えたり破損したりなどしてをり、邪神に負け易いからである。宗教によつて救われるという事は、入信以前よりは幸福になるものでなくてはならぬ。例えば身体が丈夫になるとか、貧乏だつたのが豊かになつたとか、家庭が融和する状態になつたとかいうように。

  次に芸術にも正不正がある。それは芸術によつて良い感化を受け、崇高な観念が湧くとかいう様なものが誠の芸術である。処が反対に邪念を起さしたり堕落さしたり、不快を催したりするものも多い。例えば近代絵画の如き、特に洋画の人物等は妖怪の様である。之等は自分の主観を恣まゝにしているからで、寧ろ美術ではなく醜術というべきである。之も或時期までで又改められる事になる。今の日本画は描くのではなく塗抹である。例えば書をなすつたらどうなるか。それは芸術品ではなく提灯屋の書いたものと同じである。日本画は筆力と其味わひを出す所に価値があり、それが真の芸術である。故に塗抹絵は美術工芸品だと私はいう。

  次に文化の誠であるが、文化といつても非常に広いんであるが、それを人類が利用する場合それが為社会が良くなり、人類の発明や発見を利用して人殺しや世の中を悪化させるのは誠の文化ではない。斯様に人間の使い様によつて文化は善くも悪くもなるのである。

………………………………………………………………

【お伺】絵画、彫刻等人工芸術の極致とは誤らざる自然の描写でありましようか、又芸術は美の追求であると考えますが、真善を具えれば全きというべきでしようか。

【御垂示】芸術の極致は自然のままを描写するのでなく、人格を通して真善美を表現するのである。西洋でも印象派以前は写真のように克明にかいた。これは本当の芸術ではなかつた。処が日本の光琳の画がフランスへ行つた。光琳の画は無線で、単純なもので、これをみたフランス人は吃驚した。これは細密に自然描写をするより、単純にした方が反つて印象が強いという事を発見し、最初アール・ヌーボーという人がこれを図案に応用し、終に欧洲を風靡した。この影響を受けて後期印象派の如き素晴しい芸術が生れたのである。フランスでは、「世界を動かせる光琳」という本が出たが、光琳は死後三百年を経て世界の芸術を革命したと言う事は日本の最大の誇りである。私は今に光琳神社を建立したいと思つている。光琳の影響は絵画のみではない。建築にまで革命を齎した。単純な線を応用したセセツシヨンの如きもそうである。丸の内の第一生命はその代表的な様式である。又総ゆるものの模様が単純化したのも皆光琳の影響からである。彫刻とても印象派の影響を受けている。昔は細かく滑かに作つたのであるが、荒つぽい簡素な彫り方になつた。佐藤朝山(清蔵)の如きも現在では代表的のものであろう。

  芸術は美の極致を表現すべきものであるが、高い低いはある。最高のものは真も善も具備されている。それは人間の霊の高さによるのである。音楽でも文学でも同様で、之等に就ては何れ詳細にかくつもりである。

………………………………………………………………

【お伺】音楽もそれを弾く人の想念によつて言霊のような働きをなすものでしようか。

【御垂示】勿論そうである。器楽を通じて指先からその人の霊が音律へ入つてゆく。笛など息から入る。故に音楽でも人格者や、信仰のある人のは感じよい。ラジオでもその人の霊がラヂオを通じて働く。喋舌る声なども大いに影響する。或地点にいて私が喋舌る言葉は全世界にひびく。どこでもとは言えぬ。その位置により違う。霊界には所々に高天原があり都会もある。熱海、箱根も高天原である。そこで喋舌る事は日本中へ響く。以前東京、丸ノ内の中央亭で時々講話をした。丸の内は(ス)で其中央で大に意味がある。今その時話した事が日本中に実現しつつある。

………………………………………………………………

【お伺】世界平和への途は社会主義、資本主義によるべきでしようか。

【御垂示】どつちでもないがどつちも加味される。食物は砂糖だけで味をつけるか、醤油だけで味をつけるかというようなものである。両者を丁度いい具合にまぜ合せればいいものが出来る。今迄資本主義が甘すぎた。それで社会主義や共産主義が起きた。社会主義は実に不公平な政治であり、共産主義はピラミツドを逆さに立てたのと同様である。資本主義は福助政治で頭だけ大きくて、身体や足がやせている。すべて片寄つた主義は全部駄目で今に理想的なものが出来る。

………………………………………………………………

【お伺】宗教教育とは魂の啓発でしようか。

【御垂示】世間一般の宗教々育と我々の宗教教育とは違う。今迄の宗教の説き方は幼稚園程度で、これ以上は教える事が出来なかつた。「信仰雑話」は小学校程度の教科書である。

………………………………………………………………

【お伺】ユダヤ、仏教、キリスト教等所謂世界の大宗教と称せらるる宗教が今日の人心世相を已に二千年、三千年の昔に遺憾なく言い表わしております。此内最も重大と思わるる事で未だ実現しないものに、最後の裁きで地球上の人類の三分の二は篩にかけられ、ピラミツドの王房に這入り得る者は残り三分の一であると謂われております。今迄が大体当つておりますので、今度の事を疑うよりも信ずる方が賢明であるかも知れませぬ。果して斯くの如くであるとすれば、その篩は病気、天変、地変、戦争等のいろいろの種類がありましようが、その中尤もなるものはどんな型でしようか。又その時期はいつ頃でしようか。

【御垂示】三分の二滅び、三分の一助かるという予言は私は知らない。釈迦は仏滅の世が来るといつた。之は仏教が滅するとか物質界が滅するとか諸説はつきりしない。キリストは世の終りとか、最後の審判とか言つたが具体的にいつていない。その時期として釈迦は五十六億七千万年後といひキリストは二千年後とかいてある。私も世の終りとか最後の審判とかかいているが、之は聖書によつたまでである。こういう事ははつきり時期が判つてもいえない。言はない所に価値がある。例えば人間の寿命が判つたら働かない事になる。私は予言しないようにしている。誤解され易いからである。詳しくいえば人心惑乱として法にふれる。ただ世の終りが近づいている事は言える。之は浄霊が年々よく効くようになるのでも判る。之は霊界に火素が殖えたからで、火素が殖える結果は浄化がつよくなる事である。浄化はひとり病気だけではなく、あらゆる面に及ぶから想像は出来る。

………………………………………………………………

【お伺】過去の宗教で何故霊は救われなかつたのですか。

【御垂示】全然救われなかつたのでなく、救われ方が微弱であつた。というのは過去の宗教には力が薄かつたからでそれは夜の世界の為であつた。夜は月の光だからである。然し暗の中にいる人間が月光に浴したので有難いと思つていた。処が今度の私の救いは太陽の光で、太陽は月の六十倍の力がある。その位の違いがあると思つてよい。今迄の教は月の光だからはつきりしない。今度の「信仰雑話」ははつきりしている。これを読んでも判るように、極僅かの言葉で浩澣な経文と同じ事が判る。だから今迄は霊界へ行つても寂光の浄土に救はれた。寂光とは月の光である。太陽の光なら陽光である。

………………………………………………………………

【お伺】キリストと十二人の弟子に就て。

【御垂示】キリストには十二人の弟子があつた。その中一人彼のユダがイエスに叛いた為実際は十一人の弟子である。

  その当時、当局の圧迫がひどく、弟子達は皆逃避し十年の間はひつそりしていた。十年以上経つて皆寄り合つて教の元を作ろうというので、皆でイエスから聞いた心覚えをかいた。それがバイブルであるから、キリスト御自身の書いたような訳にはゆかないであろう。旧約はモーゼが書いたもので夢みたいな謎が多いがそれは神懸りに因るものである。ヨハネが作つたという説もあるが、之はモーゼがかいたというのが本当であろう。圧迫のほとぼりの覚めるに従い、内密に書いたのが聖書である。

  仏教のお経とても釈迦の説いたものを弟子が書いたものである。釈迦はただ説くだけであつた。

  キリスト教徒にはなかなか偉い人があつた。アフリカ探険の有名なリヴイングストン博士の話を聞いた事があるが、実に偉い人で私も感心した。此人はアフリカ探険の際凡ゆる危険を犯して伝道したが、土人の鉄砲に包囲された中を平然と通過した。其時の彼は「もし自分が現世に用事があれば、絶対に神は自分を殺さぬ」という信念であつたとの事である。

………………………………………………………………

【お伺】神力、金剛力、観音力に就て

【御垂示】此力の根元は同じ事であるが、その時の表はし方により違う。例えば観音力は仏界のある間の力で月の力である。仏力の表はし方であるから弱い。神力は仏力より何十倍も強く、金剛力とは神力を発揮する場合の言葉である。

………………………………………………………………

【お伺】千手観音様の御頭の上に御顔が見えますが何を意味しているのでしようか。

【御垂示】仏であり阿彌陀如来である。実をいうと阿彌陀は観音の母になる。神仏は人間と違つて親子夫婦など場合により色々にかはる。千手観音の頭は十一面観音様と同じで、前三面は慈悲横三面は憤怒、他の三面が勇気後方一面が笑いである。阿彌陀は月光菩薩の場合、観音は日になるから此場合夫婦にもなる。本当いうと達磨は阿彌陀の化身である。月の字を略するととなり、ダルマの形である。西王母の園の三千年の桃の実が観音である。故に西王母と観音は親子となるので、観音は桃太郎にもなつて鬼ケ島征伐するのは邪神を平げる働きである。又釈尊は観音を生んだので母にもなる。

………………………………………………………………

【お伺】法身、報身、応身について。

【御垂示】報身―地―釈迦、法身―月―阿彌陀、応身―日―観音となり、観音が一番上である。

  法身は水の働きのみで彼世の事が主である。此世の救いよりは霊界即ち浄土へ救うのが眼目である。阿彌陀は西方へ浄土を作つて、仏即ち覚者となつたものを我方へ来るやうにと釈迦に誓つた。よく寂光の浄土というが、寂光とは寂しい光即ち月の光で月の霊界である。

  報身は地になるから下であるが、或る場合上になる事もある。それは観音や阿彌陀を生んだからその母という事にもなる。親が子を生むというが、子が親を生むともいえる。つまり、子が出来て初めて親という名が生れる。

  応身は一番働きが大きいんで、三位の働きを一身でなされるのである。応身とは種々の面に応ずる事で一つものに囚われない。それで六観音三十三相に化身されるのである。

………………………………………………………………

【お伺】神龍、天龍、金龍、銀龍に就て。

【御垂示】神龍とか潜龍といつても特別の意味はない。天龍は天界を守つている。地上では金龍が最高であつて次が銀龍である。龍神の偉くなつたのが神龍である。蛟龍や白龍なども相当の格式がある。

………………………………………………………………

【お伺】神龍のお働きをおきかせ下さい。

【御垂示】神龍は沢山ある。神様の仕事をする働きをする龍は皆神龍で、天然現象等も神龍がする。神様の命により色々な御用をする。人間にも憑る。但し金龍は一柱である。

………………………………………………………………

【お伺】大神、神、尊、命とどう云う風に違いましようか。

【御垂示】人間の一番偉いのは命といひ、普通人間が死んでつける。

  尊―これは生きているうちから位のあつた人につける。命より上になる。例えば素盞嗚尊等そうである。又神が人間に生れた場合にも尊をつかう。

  大神―之は主の神をいひ、只神と申す時は普通の神である。主神は体はもたれぬが唯その表現神はある。

  すべて神様の事は固定的に考えてはいけない。融通無碍である。然し国常立尊の様な神は大神といつていい、次に参考にいうが人間の場合一番上が麿で、次が丸、次が雄、男、夫という順序になる。

………………………………………………………………

【お伺】分霊と化身に就て。

【御垂示】分霊とはわけみたまといひ、人間にはないが、神様はいくつにも霊を分けられる。然し神社で同じ神様を方々で祀る場合、神の分霊というが本当をいうと、家来の直系とか傍系などの神様もある。然し天の御中主神とか高皇産霊神(タカムスビカミ)、神皇産霊神(カムムスビカミ)とかはそうでないが、伊邪諾尊、伊邪冊尊、天照大御神などは人体をもつて一度此世に現われ給うた神であるから、爪や頭髪を分けて祭られたのである。

  化身で一番重要な事は、仏は全部神の化身であつて、夜の世界の間は仏の世であるから、神々は全部仏に化身された。天照皇大神が大日如来、月読尊が阿彌陀如来、稚姫君(ワカヒメギミ)尊が釈迦如来というようにである。随而、仏滅という事は仏が皆元の神格に還り給う事である。善言讃詞に「観世音菩薩此土に天降らせ給い、光明如来と現じ応身彌勒と化し」とあるが、観音は伊都能売の神であり、ミロク神の化身である。従而、何れは観音という御名も無くなる時が来る。霊界では既に殆んどなくなつている。

………………………………………………………………

【お伺】稲荷大明神又○○明神等と明神なる言葉を用いますが、明神に就て、又天王様、天神様とは如何なる御神格の神様でしようか。

【御垂示】明神―最初は偉い神様などにつけていたが、それが段々出鱈目になつた。こういう事が世の乱れる元になる。下の位の者が、上の位の神の名を犯したりしている。それが人間界へ移つて位の上の人が下へ落ちたり、下の人が潜上の位置になつたりいろいろ乱れた。

  天王、天神も同様尊んだ訳である。彼の菅原道真を天神などとつけたのは、道真が死後讒者に対して憤り、龍神となり、雷火によつてそれらを傷つけた。ついに紫宸殿へまで落雷したので慌てて祭つたので、そのため天神とつけたものであろう。

  次に天王であるが、天は印度名で、毘舎門天・弁財天などといい、王もやはり印度語であり、孔雀明王、愛染明王などと言うそれから起つたものであろう。

………………………………………………………………

【お伺】七福神に就て。

【御垂示】これは伝説的なもので、甚だ曖昧極まるものである。いろんな説や解釈があるが、要するに日本、支那、印度三国の著名人を集めて古人が作つたものであろう。毘舎門天とか、弁財天とかすべて何々天というのは印度の位である。

  毘舎門天は印度の武神で一名多聞天ともいう。弁財天は印度名であるが古典によれば素盞嗚尊から生れた三女神の中の市杵島姫尊という日本の女神である。

  福碌寿は一名ゲホウとも謂い、寿老人も布袋和尚等も共に中国人であろう。

  大黒天に就てははつきりしていないが、印度人には違いない。出雲大社では大国主命を大黒天と称しているが、之は昔営業政策から流説したものであろう。大国主命は素盞嗚尊の長男で大黒天とは関係がない。伝説によると、神代に於て天照大神が日本を統治なされた時、印度から渡つて来た豪傑があつて、大神に何かに使つてもらいたいというた処、洵に無愛想な顔なので大神は「そんな顔ではとても使えない。もつと優しい顔にならなくてはいけない」と申されたので、それからはニコニコ笑顔になつたので使われる事となり、金銀財宝を扱う役を仰せつかつたという事で、即ち現代でいえば大蔵大臣である。これは面白い伝説だと思う。

  恵比須というのは蛭子の尊といわれ、骨なしという事になつている。天照大神の息子で毎日釣許りして遊んでいたという事である。骨なしとは要するに気骨のない人間という意味であろう、兎に角真偽は不明であるが、何か意味がありそうに想う。  又恵比須様は釣竿と鯛を持つているが、鯛は魚の王であるから、海の幸を表徴したものであろう。

  恵比須様に対して大黒様は槌を持つている。槌(ツチ)は土(ツチ)に通ずる故、槌を振る事は土の幸を産み出すという意味で、要するに海と山との宝を出す、これが恵比須大黒の本当の意味だと思う。

  元来観音様は高位の仏なるが故に、人を浄めたり、邪神を祓つたりして御救い下さる事はなされるが、金銀財宝等の物質的御救いをされる場合、大黒様に扱わせ給うのは事実で、金銀を集める力を大黒様に与えられる訳である。それで観音様の前に大黒様をお祭りするので、そうすると不思議に物質が集つてくる。

  之に就て面白い話がある。以前私が宗教人となつた最初の頃毎月赤字が続いた事があつた。すると或銀行員が大黒天像を持つて来てくれたのでそれを飾つた処その月以来黒字が続く様になつたので、私は興味を持ち大黒天像を集め、一時は五十位もあつたが懇望されるまま人に与えたので今は殆んどない。その後特別大きい大黒様が手に入つてからは予想外に金が入る様になつたのである。

  不動銀行の頭取故牧野元治郎氏は有名な大黒信者で、自分は大黒様の生れ変りの様に思つていた相だ。大黒様の夢の御告げで関東大震災の前に三千万円もの公債を買い、日本銀行へ預けた。処が震災の時他の銀行は支払いを停止したのに対し、不動銀行だけは右の公債を現金化してドンドン支払つたので大いに信用を博して、同業者間に頭角を顕わしたという話を聞いた事がある。

………………………………………………………………

【お伺】御簾の由来について。

【御垂示】以前偉い人、特に天皇が家来に会う場合簾を垂れた。貴人を崇める形式である。床の間もそういう意味のものである。神武天皇以前はそうであつたらしい。それが自然に民主的になり、簾なしにお目にかかれる事になつた。昔のお雛様などみても高く四角い所へ畳を敷いて縁に模様があり、それに座して簾を垂れる。天理教主などは今でも簾の中からお授けするそうである。

………………………………………………………………

【お伺】神様の鳥居は何の役目ですか。又賽の河原とは如何なるものでしようか。

【御垂示】之は鳥が止つたので鳥居という事になつたもので、その鳥は鶏になつているが実は烏の様である。大した意味のあるものではないと思う。之は神社の簡略な門になつている。神々しい感じを起さすものである。

  賽の河原は仏界にあつて子供の地獄で、子供が石を積むとくづされ積んではくずされるといはれている。

………………………………………………………………

【お伺】珠数は如何なる意味が御座居ましようか。

【御垂示】数は百八つある。百八煩悩といつて、人間の煩悩は百八あるという、その煩悩を絶つという意がある。霊統が絶えないよう繋がるという意味もある。

  除夜の鐘も百八つ打つが、百八は非常に意味がある。百という字は十を十集めると百即ち十十で、十十を合すと井の字の形になる。即ちミロクの世の形になる。又十字架の形にもなり、経緯結んでいづのめという意味である。八は開く形で、無数の数を表す。

………………………………………………………………

【お伺】お盆の意味に就てお伺い致します。

【御垂示】釈尊の大慈悲から孟蘭盆会というものを作り、毎年一回日を決めて地獄にいる霊を子孫の家へ還らして下さるのである。その日は地獄の釜の蓋が開くというが兎に角地獄の祖霊も仏壇へ招かれて子孫に供養される。地獄の霊もそれを知つていて待つているのである。

  元来祖霊は常に全部仏壇にいる訳でなく、平常は選ばれた留守番の霊がいるだけで子孫が拝む時だけ仏壇に集るのである。その際仏壇には或程度救われた霊だけしか来られない。つまり八衢以上のものが来られるので、地獄にいる霊はお盆の時以外は来られないのである。

  お盆には種々の儀式を行つて霊を迎へるのであるが、「おがら」を焚くのはここからお入り下さいという目印である。之は今迄夜の世界だつたため霊界も暗いので燈りを見せないと霊がまごつくからである。

  茲で注意したい事がある。それは仏事はどんな古い先祖でもする程よい。又長男だけが祖霊を祭り、次男以下は祭らないのがあるが、これはよくない。霊界人となつてもやはり現界と同様親子兄弟の情は同じ事で、自分の子供のどの家へでも行ける様にありたい訳だ。従而、次男も三男も全部祭るべきである。

  位牌が多くて始末に困る時は面識ある祖霊はそれぞれに位牌を作り、面識のない祖霊は先祖代々にまとめてよいのである。

………………………………………………………………

【お伺】道祖神に就て。

【御垂示】地蔵尊と同じもので、道六神という。又昔道を造つた人を祭つたのもある。道しるべの神である。

………………………………………………………………

【お伺】断食の功罪。

【御垂示】これは一種のバラモンの行であるが、人間は普通人三度で職業によつては四度も五度も食する様に出来ているのである。断食は間違つている。そのためその間は生産に影響するからそれだけ怠けの罪を犯す事になる。故に断食は一時はよくても罪を着る事になる。

………………………………………………………………

【お伺】虹が七色になり丸くなつて出るのはどういう訳でしようか。

【御垂示】虹が七色になるのは学説の如く、太陽の光線が分光されたもので、七色の色彩を塗つた円板を廻転さすと白く見えるが、それと逆の理によるのである。空中の水の粒子即ち水蒸気の濃度が感受性の鋭い為、プリズムの作用をして分光する訳で之も神様が造つた一つの天然の美である。丸くなるのは太陽でも月でもそうであるが、凡て物質は円状であるのが原則である。

  神霊と人間霊も移動する時丸くなつて行くのである。

  私の腹の中にも丸い光の玉がある。その光が御守を通じて働くのである。

………………………………………………………………

【お伺】雷は如何なる現象ですか。

【御垂示】雷は霊界の曇りを焼き払うのである。之に伴う雨風はその上、水で洗つて風で吹き払う浄めの業である。又他の理由もある。菅原道真が霊界へ行つて火龍となり、彼を陥れた讒者を雷火によつて悩ました有名な話があるが、こういう事は相当偉い人でなくては出来ぬことである。

………………………………………………………………

【お伺】人間の想念により天候に異変を来たすとの事ですが、二百十日、二十日を厄日と謂われ特に台風等の起りますのは如何なる理由によるのでしようか。

【御垂示】之は季節的に起るもので大いに必要な現象である。二百十日とか二十日頃に颱風を起すのは稲や作物を倒すが、根を固める働きは大きい。根が張らねば力がなく木など丈夫にならぬ。それで風によつて根が張る。根が張ると稲はよく出来る。風で倒れるとすれば肥料をやるからである。

………………………………………………………………

【お伺】毎年だんだん暖くなる様ですが、今年の稲作は早生稲が宜敷いでしようか。晩生稲が宜敷いでしようか。

【御垂示】そんなに気候は違わない。どちらでもよい。その土地によりその気候の違いさに合せてやればよい。暖い所では二毛作でよい。だんだん暖くなるのは人間の住む場所が広がつてゆくからで、人間がふえると暖かくなる。北海道等も以前よりずつと暖かくなつてきた。之は人体から発散する熱の為で、之は大した物である。人間が住むやうになるに従い暖くなる。今に南極北極に人が住む様になる。陸地の発見は氷が溶けるためである。又地殻の収縮により海が深くなり、海が深くなると川が浅くなつてくる。然しいくら川は浅くなつても、南極北極の氷がとけて海水になつてゆくから涸きつきりにはならない。

………………………………………………………………

【お伺】潮の満干が人間の生死に関係する訳。

【御垂示】潮の満干は月の引力によつて起るので、月の引力とは月の呼吸作用である。月も一日一回づつ呼吸する訳である。

  太陽は人間の霊の本であり、人間の体の本は月である。故に胃、脳、腸、腎というやうに、人体内の機能の大方は月の字が入つている。ただ心臓の心は月がない。これは太陽からの火素を吸収する器官だからである。心臓の心の字の右の点を左へおけば火となるのも面白い。

  斯の如く人間の肉体は月と密接な関係があり、月の霊線は肉体と繋つているので、月の呼吸が人間の生死に関係するのである。

………………………………………………………………

【お伺】三日月が下弦型になると、物価が下落すると謂われていますが真実でしようか。

【御垂示】之は相場師がよく言う事で、物価にはあまり関係はない。物価の動き、ツマリ上り下りは十年に一遍位に変る。然し月の変化もいくらかは関係があるようだ。 

………………………………………………………………

【お伺】五六七時代に於ける易学の価値に就て御説明をお願い致します。

【御垂示】易学などは殆んどなくなる。吉凶禍福は人間の霊が曇つている為邪神邪霊に負けるからである。人間の霊が浄くなると霊力も強まり邪神に犯されなくなるから凶禍はなくなる道理である。故にミロクの世は迷信的の事がなくなる。迷信が生れるのは精神的弱さからである。科学の教える通りにやつても凶事や禍がある。そこで恐怖を抱く。そこに迷信が発生する。その中一番怖いのは病気である。ミロクの世には恐怖心がなくなるから、迷信はなくなる。方位方角などもなくなる。これから本教も一切の迷信をなくするようにする。世界で迷信の種類の一番多いのはドイツである。科学の一番発達した国に多いのも不思議だ。科学の中にも迷信の部分が沢山ある。科学よりも治る本教浄霊は実は真の科学であり、迷信打破である。治れば迷信ではない。治らなければ迷信である筈である。

………………………………………………………………

【お伺】生れ年、生れ月が人間の運勢、性格に影響があるのは如何なる関係でしようか。

【御垂示】人間には気がつかぬが凡ゆるものに変化がある。その年の気を受けるという、気候でも春夏秋冬あり、一カ月間にしても雨が多かつたり天気が多かつたりし、日によつてもそれぞれ違う。霊的にその時の気を受けるという訳である。序でに外の事も話してみよう。私は十二月二十三日に生れた。本来二十二日は冬至で春分は二十三日が本当である。二十二日は最も日の短い時だ。今の皇太子も同じ日に生れられた。然しこういう事はきつちり定つたものでなく、或程度の影響を受けるのである。此意味に於て何の年生れはどうだとかいう事は或程度あたる。私は午の年の午の月の一白に生れたというので、将来人の頭になるという事を言われたがこれは当つていると思う。

………………………………………………………………

【お伺】人間は姓名の良悪にて幸不幸があるそうですが、その良悪を正しく知るにはどうすればよいでしようか。

【御垂示】名前で運命が決るとはいえない。大いに影響はあるが絶対ではない。善い名のつくのも悪い名のつくのも、その人の運勢によるのである。私など頼まれてもすらすらとつけられる時とつけられない時がある。名前をかへるにも時期がある。いくら名前をかえても、その時その人の霊的状態によつて善い悪いがある。又名は時代に合わなくてはいけない。今木下藤吉郎とつけても天下は取れない。以前加藤高明の総理大臣の時、その頃上野で乞食を検挙して名を査べると、同じ名で当時の新聞に出ていた事がある。よく教会で名前をかえて急に発展するのがある。名のつけ方に就ては何れ本に書く。

………………………………………………………………

【お伺】「三りんぼ」に家を建てますと風等で倒れ易いと申しますが如何でしようか。

【御垂示】一種の迷信である。悪い事のあるのは浄化故、浄化が済めば良なる訳である。

………………………………………………………………

【お伺】催眠術の原理。

【御垂示】こちらの霊で向うの霊を負かす方法である。であるから、自分の霊より以下の霊なら術がかかるが、自分より以上の霊の者にはかからない。催眠術にかかるのは大抵女に多い。それは女の霊は男に負けるからだ。

  何れにしても之は副霊の作用で、邪道であるからやらない方がよい。

………………………………………………………………

【お伺】自由主義の本義に就て。

【御垂示】自由主義といつても、無軌道な自由主義ではいけない。自由主義には有限自由主義と無限自由主義とがある。無限自由とは、何でも彼でも自分の自由にするという悪性的のものであり、有限自由は或範囲があつて、その枠を越えない事で、之が本当の正しい自由主義である。

  故に無限自由主義によつて破滅した人は古来その例に乏しくない。

  そうして自由と運命とはよく似ている。例えば秀吉は日本で関白になるのが運命の限度であつた。朝鮮征伐をしたのはその限度を破つた事になる。ヒツトラーでも独逸だけ治めていればよかつた。ドイツの統治が彼の運命の限度であつた。これもその運命を突破つて滅びた。大本教の出口王仁三郎氏の如きもやはり運命を突破ろうとした為に失敗したが、それがなければ今は素晴らしいものになつていたであろう。ナポレオンの如きも「吾が辞書に不可能の文字なし」などと自惚の極大失敗した。徳川家康などはその分をよく知つていたから長く続いたのである。人は自分をよく見究めなくてはならない。人間は調子よくゆくと慢心をする結果、運命を破るのである。日本も軍閥時代は個人の有限自由までも圧迫した。それがアメリカの手により解放された次第である。故に真の自由主義とは、他人の自由を尊重し合う事である。

………………………………………………………………

【お伺】自由主義の世になり、婦人の社会進出が目覚しくなつて来ましたがその正しい在り方に就て。

【御垂示】女は原則として家庭を治め、子供を産み、育てるのが本来の使命である。然し封建時代は余りに女性を認めなさ過ぎ、不公平であつたから神様は今迄より権利を与えて下されたのである。然し、外で働く女性もなくてはならぬ。勿論少数である。婦人運動をしたり、代議士になる女性はそういう意味である。東洋は経であり、西洋は緯が本来であるが、五六七の世になると東洋は今少しく婦人は上へ行き、西洋は今少し下へ行く事となり丁度よくなるのである。

………………………………………………………………

【お伺】女の信仰心は第六感によると聞いてますが、何故に女は第六感が多分に働くものでしようか。

【御垂示】女は感情が発達しているからである。六感は感情から生れる。男は理性的で理性は感じが鈍い。故にインテリ層などは御自分は敏感のつもりでも実は鈍感で、目に見えないものは判らぬ。すべて人間はかたよらぬのがよい。理性感情両方を円満に発達さすべきである。

………………………………………………………………

【お伺】結婚の報告は墓前にも致すべきでしようか。又正式に手続しない事は冒涜になるものでしようか。

【御垂示】祖先には報告すべきが義務である。又祖先も子孫が報告すれば御守護しなくてはならぬ義務が生ずる。但し内縁関係は披露しなくとも神様は御存知である。

………………………………………………………………

【お伺】老人と若夫婦との同居と別居はどちらが宜しいでしようか。

【御垂示】別居の方が本当である。子供が成年になれば親から離れるのが本当である。動物でも歩ける様になれば離れる。余り長く親の傍にいると子供の活動力が伸びない。

………………………………………………………………

【お伺】妻が姙娠の場合、夫が悪阻の状態をする例があり、その場合妻は何事もなく平気でおりますが、これは如何なる訳でしようか。又一般夫婦の場合、お互の浄化を引きうけ合う様な事があるでしようか。

【御垂示】これは当り前で、夫婦は霊線が一番強く太いから、妻の悪阻は夫が引受ける、反対に夫に罪があつて浄化をせねばならぬが、夫が浄化の為一家の生活に困る場合、それを妻が引受ける場合もあり、親の浄化を子供が引受ける事もある。ひどいのは子供の生命まで犠牲にする場合もある。

………………………………………………………………

【お伺】血統と霊統の区別と関係及び血族結婚の可否に就て御垂示下さい。

【御垂示】血統と霊統は同じ様に思えるが実は異うので、両者は宿命と運命の関係に似ており血統は変え得るが、霊統はかえる事が出来ない。血統は色々混る、日本人等も随分混血しており、純粋の日本人はないと言つてもいい。霊統は霊の系統であつて肉体の混血に拘わらず一貫し続いている。又混血は非常に結構である。何となれば、それぞれの人種の特長を数多く採入れるから、それ丈人間の性能が豊富になるからである。よく血の純潔を喧しくいうが之は誤りで純潔はいけないのである。

  文化でも各国の文化が混るほど高度のものとなるから、そういう国ほど文化が進んでいる。アメリカなどはよい例である。

  血族結婚は差支へない。血族結婚は不具が出たり、不幸になるなどというが決してそんな事はない。太古は皆そうであつた。よく平家村といつて特殊な村があるが、之は皆血族結婚である。

  曾つて私は奥日光の湯西川温泉へ行つた事があるが、ここはやはり平家村であつて、戸数九十戸人口六百人程であるが、病人は中風の者が一人きりで殆んどない。勿論無医村である。宿の娘と話したが実に言語応待当を得ており、素晴しく頭がいい。話によれば、初め平家の残党が逃げて来た時は三十人程であつたというから、血族結婚で殖えた事は勿論である。

  日本の神代史によれば、初め伊邪諾、伊邪冊尊の陰陽二神があり、それから殖えたのであるから、最初は右二神から生れた兄弟同士が結婚したに違いない。夫婦の事を妹背の道といい、妻を吾妹子(ワギモコ)とよぶのは兄と妹と結婚したからであろう。

………………………………………………………………

【お伺】紋所の発生した由来。

【御垂示】昔戦争した時旗を立てる。その旗に印がないとどの軍勢だか判らない為に紋をつけたそれが初めである。

………………………………………………………………

【お伺】父が三年前より賭博を始め未だに止まず、家庭不和に悩み全くどうする術もなく、借金は益々増し、親戚は手を引き公金も米等もかまわず浪費致します。これでは私も百姓がいやになり途方にくれております。父の此様な行いは如何なる訳でしようか。又私は今後如何に神様にお縋りしたらよろしいでしようか。

【御垂示】お父さんの勝手にさした方がよい。何れ行き当る時が来る。それまで待つ方がよい。これはその家に祖先の罪があるので、それを早くとらなくてはならぬので祖先が子孫の誰かを選んで金をつかわすのである。使うだけつかうと罪けがれがとれるので、それからいい事が出て来て段々よくなる。それを待つのである。

………………………………………………………………

【お伺】自己の不徳のため、相手に迷惑を及ぼしたので之を謝罪し相手も許してはくれたものの尚且つ自己の良心に責められる場合、安心を得られる悟りにつき御垂示下さい。

【御垂示】相手が許したら罪は大方消えているが、それで全部が消えた訳ではない。真の裁きは神様がなさるのだから、神様が許したのでなくては完全ではない。先方が許せば怨みの霊が来なくなるから大きい影響はなくなる。恰度法律に触れる様な罪を犯した場合、悔改め自首しても刑罰は軽くはなるが無罪とはならない。それと同様である。

………………………………………………………………

【お伺】二十六歳の男(信者)全国珠算競技に第一位を得た人ですが、「七桁」迄の暗算は会話をしながら隣りの部屋で読み上げたのを違いなく寄せ「八桁」になると耳を澄まさないといけないそうです。実に素晴しい才能と存じます。霊的に何か原因がありましようか。又天才とは如何なる理由に因るのでしようか。

【御垂示】此様な人は計算の方面にすごい頭脳が働くので、生れ変る度に計算の仕事をするので、特に発達したものである。普通二十年か三十年の経験でそうなるのが何百年もやる訳になる。天才はすべてそうである。人間の頭は使えば使う程発達する。無限である。であるから何十万年も経てばどんなに人智は発達するか判らない。人間か神か判らない程に発達する。

………………………………………………………………

【お伺】多くの動物とか鳥類の死体を見受けませんが、これは何か訳がある事でしようか。

【御垂示】動物は屍化(シケ)といつて鳥などは地へ落ちるとミイラの様になつてなくなる。即ち霊化して了う。動物もそうである。即ち自分で自分自身を始末する訳である。然し家畜には屍化の作用がない。

………………………………………………………………

【お伺】正月に就て。

(一)一月を正月という意味

(二)松竹梅のおかざりの意味

(三)〆飾り

(四)お飾りに使用する裏白、昆布、橙、海老等

(五)小豆粥

(六)七草

【御垂示】之は大した意味はない。一月を正月というのは、年頭に当つて今迄の間違つた事悪い事を反省して正しく出発しようという意で、正しく始める月という意味である。

  松竹梅のおかざりは、松は六、竹は七、梅が五で五六七(ミロク)になる。故に本当は梅松竹と書くべきだが、松は一番位があるので松竹梅としたもので、やはりミロクという芽出度い事の予言でもある。

  飾り七五三縄の由来は、神代に国常立尊を艮(ウシトラ)へ押込め、その系統の神々をも押込め、再び此世に出られぬ様にという意味でシメを張つたものだという事になつている。

  その他柊(ヒイラギ)はトゲトゲしているから悪魔除けの意味、ぞう煮は尊の臓腑を煮て食うという意味で、小豆粥は血と筋を食う意味、又煎豆を撒くが、これは煎豆に花が咲いたら出よという事等で鬼門を非常に恐れた。昔から良い事を反対に解した事は沢山ある。

  裏白、裏の白いという事は浄い事で、裏に秘密や暗い蔭などないという意味、白は清浄の色で、神主の着る白衣は浄衣という。昆布はヨロコブの言霊で、幣は祓い浄める意味、ヌサから出ている。橙は代々喜ぶにかけており、ゆづり葉は家督とか名とか嗣ぐ意味、海老は腰の曲る程寿命の長い事、要するに芽出度いものを集めたのである。

  七草というのは一種の迷信である。昔から七の数を多く使つたものである。子供が生れればお七夜を祝い、死ぬと初七日とか七七四十九日を最後の法要日とする。春秋の七草、何々の七不思議、七曜、北斗七星等々で、又七は成り鳴るで物が完成する意味であるから七草というのは、正月が一期済んだという訳で、創世記にも七日目に完成、日曜日に神が休んで祝うとある。

………………………………………………………………

【お伺】四十手、五十手とは。

【御垂示】四十手、五十手、六十手というが、年をとるに従つて毒素が手に集り固まる。それが痛むのである。之は浄霊によれば簡単に治る。

………………………………………………………………

【お伺】世間よく夜泣きをする子供の寝床に刃物を置くと夜泣きをしなくなる様ですが、此場合刃物は霊的に意味が御座いましようか。

【御垂示】霊によつては刃物を恐がるのがある。夜泣きするのは、親に怨みをもつた霊が親を苦しめるためである。であるから死人の上など庖丁や匕首をのせる。刃物が恐いという霊は沢山ある。それは刃物で殺された霊などが特に恐がる。それが皆刃物で解決するとは限らぬ。

………………………………………………………………

【お伺】神社仏閣は四棟ですが、人の住居は四棟の家は不運ですがどういう訳ですか。

【御垂示】そんな事はない、ただ四は死に通ずるから四という数を嫌うのだろう。気にする要はない。

………………………………………………………………

【お伺】趣味として魚釣りをする事は差支えないことでしようか。

【御垂示】之は趣味として熱中しない程度なれば差支えない。ただあまり凝ると魚の祟りがある。私は若い頃釣りに凝つて指が腐つたようになつた経験がある。之はみみずと魚の怨みで、特にみみずは龍神の一種であるから祟るのである。然しあまりに凝ると、魚釣りの殺生の罪よりも、怠けの罪の方が大きい事になるから注意すべきである。人間は常に五体を有用に使うよう心掛くべきで、特に頭を使う方がよい。頭は使う程発達し、長生きをするから、頭を使う学者、僧侶等はそうである。あまり使わぬ野蛮人などは割合に早死するにみても知らるるのである。

………………………………………………………………

【お伺】幽世の大神とは如何なる大神様でしようか。

【御垂示】霊界を支配している神様である。以前は閻魔大王である。国常立尊様で、此神様は数十年前に大国主命に幽界の主宰を委ねられ、今は現界でお働になつている。私を守つている。私は何か分らない事がある時は国常立尊様にお伺いするが頗る簡単に教えて下さる。力のある神様で、どんな邪神でも此神様には叶わぬ。観音力とは国常立尊様のお力が元である。又審判の神様でもある。

………………………………………………………………

【お伺】昼の世界に転換するにつれて、地獄はどんな様相に変りつつあるのでしようか。

【御垂示】地獄はズツと違つてくる。一時地獄は浄化がつよくなる。そしてどうしても見込のないのは閉じ込まれる。今迄はそういう浄化が緩慢であつたが、今度はそういかぬ。人間でも間違つたのや曇の多いのは、今迄二年か三年で清算されたものも一日か二日でそうなる。五六七の世はひどい悪人はいなくなるから地獄の刑も楽になる。今日の下級労働者位である。

………………………………………………………………

【お伺】東洋と西洋の霊界の相違。

【御垂示】東洋の霊界はピラミツド型になつており、階級的である。西洋のそれは概ね平面で少し立体的になつている位で、幾らか階級がある。言葉でも日本の言葉は非常に階級的で、西洋の言葉は平面的である。

………………………………………………………………

【お伺】霊魂を認めない宗教人の死と、信仰を持たない一般普通人の死と、死後霊界に於てどの様に異いましようか。

【御垂示】宗教家の罪の方が重い。すべてその人の位や役柄の高い程神の咎めは重く、霊界に於て許されるにも長くかかる。鳥が神社の屋根へ糞をたれてもお咎めないが人間がそんな事をすれば大変だ。霊を信じない人が霊界へ行くと非常に驚愕すると共に、暫らくは痴呆症のようになるものである。

………………………………………………………………

【お伺】宗祖、開祖は八衢にあつて教を垂れているんでしようか。

【御垂示】宗祖開祖は天国又は極楽にいられる。八衢で救いをしているのは全部その弟子で、即ち神主とか僧侶、布教師、伝道師等である。然し中には右のような宗教者でも、罪の為八衢や地獄で苦しんでいるものもある。これは間違つた事をしていたからで、その罪は宗祖開祖が一部を引受ける場合もある。

………………………………………………………………

【お伺】霊界では年令はどうなるでしようか。

【御垂示】霊界の年と云うのは、実に千差万別で、地獄と天国と違う。天国は若くなる。地獄の霊は年寄のようになる。又霊界で年とつて育つのもあり、年中同じのもある、私も天国へ行けば三十歳位になる。霊界へ行くと年齢が違つても、親子はどこまでも親子である。霊界は凡て其人の想念の善悪と罪穢の多少、使命の必要、霊位の高下等によつて千差万別である。

………………………………………………………………

【お伺】心霊学者、修養団体(報恩会、奉誠会、霊友会)等の指導者の霊視能力は憑霊の為でしようか。

【御垂示】総て霊視能力は憑霊の為で、其殆んどは狐霊である。狐が憑ると霊が見えたり声が聞えるのである。精神病者は右の能力が顕著である。故に普通人がそうなる事は危険である。然し特殊の場合一時的見える場合は差支えない。始終見えるのはよくない。精神病者がよく空間をみつめているが、之は医学では幻覚といい、聴えるのを幻聴という。正守護神が視せる場合があり、其際狐を使う事もある。

………………………………………………………………

【お伺】人の生れ代りにつき、或霊の申すのに「前生の人の性格中類似の特質(例えば十の特質ありとせばその中の五乃至六種)を具えて生れる場合もある」と申しますが右は本当なので御座居ましようか。此場合に霊の分霊と憑依に就て。

【御垂示】確かに多くなつたり少くなつたりすることはある。人間の霊には分霊という事はない。神様は高級になる程いくらでも分霊が出来る。狐なぞは、狐の眷族が方々へ憑るので、丁度分霊のようにみえる。又霊は一瞬にしてどんな遠方でも行くから、分霊された様に思えるのである。

………………………………………………………………

【お伺】憑依した霊は霊界を脱出するでしようか。又霊界に帰り神様に処罰されるでしようか。

【御垂示】無論霊界を脱出する。霊が地獄を脱出する時は火の車に乗つて来る。火の車は地獄のバスの様なもので、霊は既に死んでいるからとても苦しいが、苦痛だけで死ぬ事はない。憑依の目的が良ければ大した事はないが、只無断脱出の罪は問われる。

………………………………………………………………

【お伺】人間が再生した場合、副守護神は前生と同じものがつくでしようか。又変るとすれば如何なる意味にて変りますか。

【御垂示】死後副守護神は必ず放れ、再生の場合副守護神は変る。又死後副守護神は暫らく憑つている場合もあるが、結局は放れる。再生の時その人に憑く副守護神は必ず何等かの因縁がある。

  副守護神は人間が動物霊になつたのや、その土地にいた狐とか狸とか、いくらか因縁のあるものが副守護神になる。決して出鱈目ではない。何等かの繋りがあるのである。生れる子供が霊的階級の低い時は低い霊がつく。それは祖先の罪穢の多少による。罪の多いのは低いとその低さに相当した副霊がつく。

………………………………………………………………

【お伺】憑依霊は副霊の働きの強い時に憑依するでしようか。亦憑依する霊は先祖に関係あるでしようか。

【御垂示】副霊が憑つている肉体へ別の副霊が憑るべく入ろうとして争う事がある。其際憑依霊同志が戦うので、人間の方はフラフラしたり、煩悶状態になるものである。そして前住の副霊が後入より弱い時は後の霊が勝つ事があるが、それは一時的で長い間にはやはり先住の副霊が勝つのである。

  先に墓地に接近すると必ず病床に寝る人があつたが、之は死霊が憑くのである。又或松の下を通ると必ず死にたくなる所があつた。之も縊死の死霊がつくのである。狐などは臨時に憑いて人を殺したり悪事をさしたりする事が多いのである。そういう事のうまい程、彼等の仲間で巾が利くのである。祖霊は人間に何か伝える時など大抵は狐に委託するものである。

………………………………………………………………

【お伺】狐や狸や猫の霊は多く憑依しますが、犬や猿の霊は如何でしようか。

【御垂示】狐や狸は人間に憑き易い。中でも狐は一番憑き易く、性格からいつても人間に一番似ている。祖霊が何か知らせる場合よく狐が代りになつていう。そういう場合本当の事も嘘の事も言うが、それは狐の性格である。然しそれを一概に祖霊と決めても狐霊と決めても間違う。その話の中で真面目な事は祖霊の言とみてよく変な話は狐と思えばいい。狐は人間の言葉を聞く性能を持つている。次は狸で猫は少ない。犬、馬、猿という順である。鼠や豚はあまりない。豚は人間に肉を供するのが使命である。天理教では牛肉はいけないが豚肉はよいとしている。

………………………………………………………………

【お伺】現在三十五歳の婦人、娘を連れて再婚一年程前より月経停止、それより体の調子悪く同時位よりお乳が出るようになり、搾れば今でも出るそうです。主人は先妻との間に一子が出来たが、産後二三日で他界、先妻の方でも主人の方でもこれを祭つてないとの事です。お乳の出るのと死んだ子供との間に何か霊的関係がありましようか。

【御垂示】子供の霊が祀つていないため、後妻である此人に憑いた。赤児は乳をのみたいので祖霊の中の正守護神が、霊的に乳を出して霊の子供に飲ませる。それがいくらか物質化して現実の乳となると解釈すべきである。早く祀らないと色々な事をやる。肩がはる場合、赤子の霊がおぶさることがよくある。乳にブラ下る事もある。そういう場合も赤児の霊が吸うからいくらか乳が出る。以前悲しくもないのに涙が出る人があつた。此人は流産したのが祀つてなかつた。それを教えてやつたら其場で気持よくなつた。これは流産した子供が憑いていた。

………………………………………………………………

【お伺】人間往生すると北枕に寝かし、着物を左前にしたり、逆さに掛けたり、逆さ屏風にしたり、死体の上に刀を置いたりする習慣になつていますが之は如何なる訳でしようか。

【御垂示】元来方角からいつて北は霊、南は体である。人間が死ぬと霊になるので、北へ向つて往くのが本当である。往生する時、天国へ往く霊は額から、地獄界へ落ちるのは足の拇指から、八衢へ往くのは臍から、それぞれ脱出するのであるが、天国行の霊は少ない事は勿論で、兎に角天国へ行く様にという意味から北枕にするのである。そうして方角の中北が主で一番位が高く霊気が濃いのである。

  北とは言霊学上気足(キタ)で、即ち霊が満ちている事で磁石が北を指すのもそのためである。従而、体は南へ、霊は北に属する。これが原則である。故に生きた人間とても北枕にした方がよい。昔から頭寒足熱というが頭を冷く、足を温める訳で私は昔から北枕にしている。然し北枕がいいといつても床の間が南になつている場合は不可である。死者に着物を左前にしたり、逆さにかけたりするのは現界と霊界は逆であるからで、すべて反対が理窟に合う事となる。

  刀は魔除けのためにおくので、死人を魔が狙うとか、猫や邪霊などがいたずらをするという訳だがそんな事はないので、之等は生きてる人の気慰めにすぎない。

………………………………………………………………

【お伺】墓石に自然石を用いるのは墓相学上よくないと聞いておりますが、墓相というものはあるものでしようか。

【御垂示】人間に人相がある様に墓相の可否も多少はある。自然石を墓石にするのは余りよくない。自然石は本来庭石などに使うべきもので、斯ういう事に使うのは理窟に合わぬからである。

  やはり墓には墓石の形にするのが本当である。霊によつては斯ういう事を非常に嫌うのがある。墓参に行くと祖霊が墓へ挨拶に来る。其時墓が法に適つていないと厭がるのである。霊界人は総て法則通りを好むので実に几帳面なものである。

  又黒石を大変嫌うが元来黒色は地獄とか悪魔を表徴するからで、天国は白色又は紫色で表わすものである。

………………………………………………………………

【お伺】印形や墓相によつて人間の運命が左右されると聞きますが事実でしようか。

【御垂示】印形とか墓相とかいうものは相当あたるものである。印を見るとその人の性格がよく表われている。従而その性格通り世渡りをするから、運命もそれに伴う道理である。墓石は違う。墓石は祖先と子孫を繋ぐもので、いわば霊界と現界の楔のようなものであるから重要なもので、墓石は墓石としての法則がある以上、それに外れ、法に適わない時は、運命にまで影響するのである。

………………………………………………………………

【お伺】墓碑建立につきて常識的に留意すべき事項、例えば方向、形状、盛土の高さ、石の種類、植樹の可否等につき。

【御垂示】方向はどちらでもよい。その土地の地形によればよいが、本当から言うと北の隅で南向が一番よい。

  形状は普通の形でよい。自然石はいけない。形状は石屋の造る形でよい。盛土の高さは丁度拝みよい高さがよい。即ち一尺五寸位である。石の種類は白い色ほどよい。黒つぽいのは不可である。極く上等の墓は白大理石を用いる。植樹は墓に植える様な常磐木ならよい。余り高くなるのは不可である。即ち槇、モチ、カナメで特にシキミがよい。

………………………………………………………………

【お伺】宗旨の違つた寺に墓地を移転致しましても宜敷いでしようか。

【御垂示】あまりよくない。それは同じ釈迦の弟子でも親鸞、法然、日蓮などいろいろの派に分れているが、同じ仏教信徒であつても他宗派に祭られるのは、人間で言えば移民のような居候のような具合でうまく行かぬ。霊が窮屈である。

………………………………………………………………

【お伺】戒名が余りに簡単で取り替えたいと思いますが宜敷いでしようか。

【御垂示】差支えないが戒名が簡単だからとて、霊界で階級が違う訳ではない。長い戒名でも罪穢れが沢山あれば同じ事である。金持など大抵無理して金でつくるから霊界へ行つて身分の低いのが多い。

………………………………………………………………

【お伺】お位牌を祀らずに過去帖だけ、又は繰位牌で祀つて居る家庭がありますが、差支えないでしようか。

【御垂示】位牌が本当だ。そうでないのは嫌がる霊もある。過去帳は祖先の帰幽を忘れぬ為に、年、月、日を記くのである。毎日の礼拝法事や供養する時、霊がうつる為の位牌である。過去帳等は位牌の用途と自ら違う。過去帳を拝むのは間違いである。繰位牌も感心しない。

………………………………………………………………

【お伺】私の主人は昭和十九年戦死し、末子でしたのでまだ分家の形はとつていませんが、戸籍上分家しています。今私は里に帰つておりますが、主人の霊は私の方でお祀りした方がよろしいでしようか。又は本家でお祭りしておればそれでよろしいでしようか。又主人の遺言では私に独身で分家を立ててほしいとの事、皆はそれに不賛成です。遺言を守らねば霊は満足しないでしようか。

【御垂示】両方で祀らなくてはいけない。たとえ何年でも夫にした以上そうすべきである。祭り手は多い程よい。祭り手が多いと霊界で霊の向上が早い。又遺言でも可能なものは実行すべきだが、無理や間違つた遺言は守らなくてもよい。要は正しい事なら恐るる処はない。

………………………………………………………………

【お伺】夫婦の霊を同じ仏壇にお祀りしてもよいでしようか。又離婚せられた親の位牌の位置はどう云う順に入れたらよいのでしようか。

【御垂示】同じ仏壇でよろしい。妻の霊は夫の霊より次の位に祭る。一方だけ祭るのはまづい。総て左が上座である。夫婦の位牌は並べた方が猶よい。離婚された親の霊は次位に祭ればよい。

………………………………………………………………

【お伺】古墳、墓地、神社等の跡を道路等に改修工事を行つた場合、木を伐るとその関係者に災難があるのですが、如何が致しましたら宜敷いでしようか。

【御垂示】手続きしないからだ。手続きすればよい。代りの木を近くへ植るのである。そしてお祭りして言葉でよく事情を言い許しを乞う。止むを得ない事は必ず霊は許すのである。神社等の場合小さくとも代りの宮を建て神が鎮まられるようにすればよい。

………………………………………………………………

【お伺】昔から火柱が立つと火事があり、その倒れた方向に燃えると言い、又それをみた人も相当ありますが如何なる理由によるのでしようか。

【御垂示】先に霊界で火事がおこる。霊が体にうつる法則により現界で火事となる。然し入信した人は大丈夫である。未信の人であれば祝詞を上げ光明如来様にお願いすれば火事にならずそれですむ。

………………………………………………………………

【お伺】稲荷を部屋の内に祭る事はよろしくないように伺つていますが、今迄部屋の内に祭つてあつた稲荷を庭に祭らせて頂く場合の方法を御教示願います。

【御垂示】稲荷はやたらに祀り替えてはいけない。怒つてアダする事がある。祖先からあつた稲荷は大祖先が稲荷になつて守護しているのであるから部屋の中でいいが、中途の祖先が祀つたものは処理した方が宜しい。其場合お供物を上げて今日迄の御守護の礼をいつて、今度光明如来様をお祭りする事となつたからお帰り願いたいと口で言うだけでよい。祝詞は天津祝詞を奏げればよい。

………………………………………………………………

【お伺】自家で飼育した家畜を殺して食べる事は罪悪になりましようか。

【御垂示】家畜類を殺して食う事の可否は一概には決められぬ。営業で殺す場合は割合に罪は軽いが、そうでないのは重い訳で、動物と雖も殺されれば怨む。其怨みも沢山になると共同して人間に対し恨を返す事になる。故に年に一ぺん位まとめて供養してやるといい。そうすれば罪は消える。営業でなく自家の家畜を殺す場合は怨みが大きいから必ず供養してやる要がある。そうしてその時幽世の大神様に、「その家畜類が此次は転生して人間に生れ代らして下さるよう」御願してやると反つて大きな功徳となるのである。

………………………………………………………………

【お伺】銀杏の木は在家に樹てても良いものですか。

【御垂示】銀杏の木はよく神社とかお寺に限る様に言つているが、そんな事はない。在家へ樹てても差支えない。

  銀杏は普通の木とは一寸異い神秘の木である。銀杏の木には霊が憑り易い。実の汁は霊が好むのである。銀杏を倒すとよく祟るというが、それは霊が憑いているからである。故に切り倒す場合手続をすればよい、ノアの洪水の時残つたのは銀杏の木だけだつたという伝説がある。

………………………………………………………………

【お伺】銀杏の木を切つたら一里四方位実が成らなかつたが(男の銀杏の木)如何なる訳でしようか。

【御垂示】之は銀杏の本だつたに違いない。其為その枝になる他の銀杏も自らそうなつたので、霊的に繋つているのである。実に神秘の木である。松も柳も神秘である。古い銀杏程霊が憑る。三十三間堂柳の由来の如きも、龍神の霊が憑依していたのである。松は男龍、柳は女龍という事になつている。曾つて宝山荘の入口に右に松があつたので、私は左に柳を植えたが之は男龍女龍の意味である。松も柳も皮が龍の鱗に似ている。

………………………………………………………………

【お伺】或信者が大光明如来様をお祭りさせて頂きました処、その部屋に貼り交ぜ屏風が御座いまして、出口王仁三郎師の万年青(オモト)の短冊がありましたが、一夜にして葉の色が褪せて枯葉色になつて仕舞ました。如何解釈しましたら宜敷う御座いましようか。

【御垂示】出口王仁三郎氏は月の神様が人間に生れたのである。光明如来様は日の光であるから、その光にあつて枯れて了つたので、決して不思議ではない。あり得べき事である。勿論霊の方が枯れて体に映つたのである。

………………………………………………………………

【お伺】大阪市の或理髪店で奥の間の御神体に対し善言讃詞をお唱えしますと、店の客が絶えます。或霊憑りが表を沢山の亡者がうろうろしていて、お唱えの声が聞えるとその家の前に立塞がり、現界人も出入が出来なくなる。入口の戸を開けお入りなさいと言い、お浄めをすれば亡者が救われに家の内に入り、又お客も入ることが出来ると申し、事実客が絶えます毎にその通り致しますとお客が参ります。他人に奇異の感を抱かせる事にもなりますので如何致しましたら宜敷いでしようか。

【御垂示】これは本当である。善言讃詞を上げると亡者の霊が集まる。そしてそれを聞く毎に一段一段向上する。霊は有難いから外の霊を勧誘してつれてくる。そういう事で本教の発展をするので構わず続けてよい。亡者も無限ではない。又客の祖先など少しでも因縁のある人でなくては来れぬからである。その代り何れ霊はお礼するので繁昌する事となる。

………………………………………………………………

【お伺】栃木県芳賀郡逆川村の或家で「こんにやく」の花が咲くごとに家人が死亡致しておりますが、何か関係が御座いましようか。又「こんにやく玉」を盗んで栽培致しましても育たず、尚他人の土地へは繁殖しませんが、何か原因がありましようか。

【御垂示】何か霊的のものだ。蒟蒻玉というのはよほど意志のあるものと思われる。植物によつては動物的のものもある。之は意志のある植物で、霊的というより寧ろ神秘的である。以前植木屋に聞いて試したが、人語の判る植物がよくある。花が咲かないので、今年咲かないと切つて了うというと必ず咲く、実に不思議である。又花壇の上を小児の形をしたものが多数踊つているのが見える人がある。之は妖精といつて西洋に多くある。之等は植物と動物と密接したものである。淋病の淋菌「ゴノコツケン」は動物性の時は伝染するが、時が経つと菌が苔のように植物性になると伝染しない。これが酒などのむと又動物化するのである。

………………………………………………………………

【お伺】先日光明如来様の御書体の前で患者を浄霊致しておりますと、急に家族の者が御書体が動くといひ出しました。振り返つてみますと左右に静かに一定の速度で揺れています。それと同時に私の左肩がつよくしめつけられる様になり、左手が動かなくなつてしまいました。御書体は十五分程動揺し、その間二回程前後にも動揺し、部屋中蜘蛛の巣を張つた様に一面光がみたされ、御書体が静止すると同時に私の手も動く様になりました。何か霊的原因で御座いませうか。

【御垂示】神様が不思議をみせて下すつたものである。例えばその人に早く信仰を進める必要ある場合に、いろんな方法で奇蹟をみせて下さる。又その人により近隣の人を早く救うとか、その土地を早く開かねばならぬ必要のある場合、不思議な事を見せられるものである。之は光明如来様は紙に文字をかいただけと思うといけないから、生きてをる事をみせられたものである。

………………………………………………………………

【お伺】光明のお軸を拝んでると床の左壁に光明の文字が白く浮出します。その訳をお教え下さい。

【御垂示】私の書いた絵や文字から光が出るのを見る人は沢山ある。事実光が出るのである。其文字の通りの光が出て光が文字の意味通りの働きをする。此説明は今の科学的頭では理解出来ない。私が光とかいた紙を懐に入れると光の働きをしてそれが腕を通つて放射し病気が治る。私が字をかくと私の手から光が筆を通つて紙に印象される訳である。それは私の腹には光の玉があつて、其光が手を通る又此玉は光明如来様から出る。光明如来様は又其上の神様から出る。私が大光明如来とかくと大光明如来の働きをする。是は極く簡単な説明で詳しく説明すると先づ霊界の構成から説明しなくては判らない。此説明は何れ著書でする。今は此程度で。我慢して貰う。

………………………………………………………………

【お伺】光明如来様をお祭りしてあるお部屋へ入ると、麝香よりも、線香よりもずつと好い匂いがする。特に立派な先生の御宅の御奉斎の間へ入ると一層強く感じますが、如何なる訳でしようか。

【御垂示】神霊は何ともいえぬいい匂いのするものである。匂いというのは真善美の中、美のうちに入るので、天国や極楽などは芳香に満ちているものである。

………………………………………………………………

【お伺】観音力、観音行、観音心に就て。

【御垂示】観音力とは観音の発揮する力であつて、此観音力を戴けば人間が之を発揮する事が出来るのは、諸君が無数の奇蹟を行つている事実によつても明かである。ただ其際人により発揮する力の強弱の差別はある。

  観音心とは観音の大慈大悲の御心であり、その御心を心として体現する事が観音行である。特に観音心行に於ては絶対に人を咎めてはならぬ。此人を尤めるのが一番いけないのである。

  御讃歌に菩薩行という事があるが、菩薩とは仏教では覚者を指すのである。この菩薩までは誰でもなれるのであるが、如来には容易になれない。如来も無論印度の位で、尊者、菩薩、何々天、如来・明王という位がある。菩薩行とはその菩薩になるまでの行をいうのである。

  観音様の事を無礙光如来とも応身彌勒ともいうのであるが、之は自由無碍、円転滑脱、行詰る事のないお働きをいう。又応身とは、相手に応ずる事で、時により、所により、人により凡ゆるものに応じ千変万化の行をするので、三十三相に化現されるというのも、応身のお働きを示したものである。であるから観音行に於ては、先づ応身する事が出来なくてはいけない。そして本当に観音行が肚へ入ればどんな事でもうまく行くのである。

  観音様は一面非常に勇猛な点もあるので、最勝妙如来という御名もあり、又馬頭観音のお働きもあるが、此場合は獣になられて悪鬼羅刹を克服されるのである。

  神様の事は悉く極めて合理的であつて、神様のなさる事やお許しのある事は必ず肯けるべき理窟がある。従而人間の行動も無理がないと共に理窟が立たなくてはいけない。然しそれは決して窮窟に難しく考えるのも感心出来ない。要するに信仰は当然の事を行えば良いのである。よく「果報は寝て待て」というが、あらゆる事は決して焦つてはいけない。寝て待つ位な常にゆつたりした気持でなくてはならぬので、そうすれば物事がうまくゆくという事で、之も観音行の一面である。

………………………………………………………………

【お伺】浄霊によつて善人と思われる人が助からぬ場合があるのに、全く悪人としか思えない人で助かる場合がありますのは如何なる理由でしようか。

【御垂示】一般に人間の眼からみて善人悪人を決めるが大いなる間違いである。之は神様からみると往々異う場合がある。「信仰雑話」にある如く総て小乗と大乗とあつて、之によつて見方が違う。人を観る場合大乗的にみなくてはいけない。善人といつても本当の善人は極めて少いので、普通善人というのは大抵意気地なしで、概して働のある人は多く悪人に見えるものである。神様の御眼からみれば善人といつても役に立たぬ人間は此世の穀つぶしで一種の悪人である。大善をする場合は必ず小悪を伴うもので、之は仕方がないのである。その際小悪のみをみると悪人としか見えない。又悪人からみれば善人は悪人である。

  要するに簡単に善悪を決める事は出来ない。善悪は又時代によつても違う。忠君愛国思想も民主々義の現在では悪になる。要するに全人類平等に幸福にする事でなくては本当の善ではない。

………………………………………………………………

【お伺】邪神は殊更正神らしく見せかける様に思われますが如何でしようか。

【御垂示】之は無論そうであつて、最初から邪神と判られては人間の方で警戒するから、邪神の目的は立たぬ。どこまでも正神と見せかけて間違つた事、悪い事を、善い事、正しい事の様に思わせるものである。邪神はいはば人間界の詐欺師のようなものである。これを認識しないと邪神の術中に陥るのであるから、余程はつきりとした眼識をもたねばならぬ。

  私の「信仰雑話」をかいたのも、一つはそういうものにしつかりした判別力を植付けるためでもあるから、どうしてもこれによつて智慧証覚を磨かねばならぬ。随而邪神の言動は立派に見えても必ずどこかに欠点のあるもので、容易に見破り得るのであるが、人間はその判断がつかぬため他愛なく騙されるのである。例えば共産主義の如き之は自己の階級だけを愛し、他を打倒しようとする間違つたものであるが、主義者は之こそ大衆を救う唯一のものであり、絶対の真理だと信じてやつている。それだけに又非常に強い処がある。

  又社会主義の如きもそうで、之が本当のやり方で之によつて社会は救われると信じ切つている。此主義によると、愚者も、智者も、恵者も、偉人も平等に取扱はうとする。そこに不公平がある。大自然を見ても一切に自ら階級がある。偉人とか智者は、社会からそれ相当の地位を与えられ、優遇さるべきが本当であつて、それによつて社会の秩序が保たれる。又社会主義は人間の競争心をなくそうとするが、之は、文化の進歩を阻害する事になる。競争心があるんで進歩発展するのである。次に資本主義も甚だ間違つている。之は、金力を以て大衆の幸福を蹂躪する事になるからである。どうしても全体が幸福を得るという、全体幸福主義というような新しい思想が生れなくてはならない。そこ迄文化が向上する事を念願として進むべきである。

………………………………………………………………

【お伺】真を行うには如何致したらよいでしよう。

【御垂示】自分の事を第二にし他人を良くするのが誠である。即ち人良かれの精神。利他的精神である。世の中とか社会の為になる事を行う事である。真とは嘘の反対で本当の事である。然し乍らただ正直のみでも困る。智慧が働かなくてはいけない。常識的判断がよい。自分の国家とか階級だけ良くするのは善い様に見えて真ではない。それは小さい真であるから、突つめれば真でなくなつてしまう。どうしても人類愛を本として判断しなくてはならない。

………………………………………………………………

【お伺】言葉と言霊に就て。

(一)こちらの発する言葉が相手を益する場合には嘘、怒り、泣言の相槌等の言葉を発してもよろしいのでしようか。

(二)神様から御覧になつた場合の良否は判らなくても、自己の所信を表現する場合の言霊はどうなりましようか。

(三)お世辞の言葉、虚勢を張るための言葉、或は自己を卑下する言葉は如何なものでしようか。

(四)言葉は簡潔な方が宜しいと存じますが、時と場合により空気を和げるために、雑談冗談等を言う場合の言霊はどの様なものでしようか。

【御垂示】(一)嘘はいけないが止むを得ない嘘もある。又昔から天下国家のために怒るのは善いが、個人的の怒りはいけないとしている。怒りを行動にうつすことは勿論いけない。そうかといつて怒りを抑えて精神病になる人もある。怒り、嘘もすべて臨機応変である。嘘にも善悪があつて、いい嘘はよい。よく入信しないと救われぬと言うような嘘はいけない。神様の事はどこまでも真実でなくてはいけない。目的のために手段を選ばぬという事は非常に悪い。泣言に対する相槌はうたなければならない。慰める訳だからで然しそれには限度がある。早く泣言を打切るよう知慧を働かせるべきだ。

(二)神様の御覧になつた場合といつても程度問題である。誠のある程いい智慧が出る。大抵は誠の心をもつて、常識的に考えれば善悪は大抵判る。ただ大乗と小乗は逆の場合があるから注意すべきだ。戒律宗教は小乗で、戒律によつて悪い事を防ぐのは本当ではない。戒律がなくても悪い事をしないのが本当である。要するに之も臨機応変である。

(三)之も程度問題で表面だけじや反つて不快を与える。相手に快感を与える程度にするのが原則である。よく喋舌るのが下手で、信者が出来ないと言う人があるが、話がうまくて信者が出来るものなら講釈師でも頼んだ方がよい。寧ろ喋舌るのが下手な人に多く信者が出来る。私は常に思うがユスリなどは実に話がうまい。それで効を奏するから益々弁舌が発達する。嘘が進歩する。誠の人はどうしても実行的で話は下手である。虚勢は嫌味である。人間はアク抜けなくてはならない。自己を卑下するのは下座の行で或程度はよいが、卑下し過ぎる事はあまり感心出来ない。

(四)冗談もうまいのは大いによい。場面を和げる。人間は人を笑はす位に話術がうまくならなくてはならない。事務的な事は無論簡潔がよい。

………………………………………………………………

【お伺】自己の行に対しては専ら小乗的に律し、他人に対しては大乗的に行くべきが本当でしようか。

【御垂示】之は大いなる誤りである。大乗的といえば自分も他人もあらゆる事に大乗的でなくてはならぬ。自分を小乗的に律する時はそのため自分自身が拘束され、働きが狭まり力が出ぬ。

  戒律などは小乗的なもので狭い、こうしてはならぬ、ああしなくてはならぬと限界を作ると進歩発展が出来ぬ。要するに何をしても良いという具合でいて、自ら総てに渉つて法に外れず、道に叶う様でなくてはならない。

………………………………………………………………

【お伺】私は東京で戦災に遇い只今他地に住つておりますが、相次ぐ物心両面の苦しみに堪え兼ねつつも救いのお道の為、大いに働かせて頂き度いと衷心より願つて居りますが、それも思うように出来ませんが、どういう訳でしよう。

【御垂示】これは罪穢が沢山ある為であり、又大きい使命があるからでもある。大きい使命のある人はより磨かねばならない。それが為苦しい浄化はあつても、その人に信仰のある場合、神様は必ずそれに堪え得るような奇蹟や、一方良い事を与え希望を持たせて下さるものである。故に信仰さえ動かなければ、左程苦しまず必ず一歩々々好転してくる。故に結局は良くならんが為の苦しみと覚るべきである。

………………………………………………………………

【お伺】入信してからの不幸災難の原因に対する神の慈悲と恵に就いて。

【御垂示】信仰者に対し神様が恵みを与えようとしても、その人に罪穢があつては神恵を受ける資格がないためである。即ち入れ物の中が汚れているからそれを取除いて奇麗にして下さるという訳である。

………………………………………………………………

【お伺】神は浄化を下し給うて御救い下さる反面、苦痛をも与え給うのは罪業の許しの意味でしようか。又浄化と関聯して死が与えられるという事は、如何に考えるべきでありますか。

【御垂示】罪業の払拭は苦痛によつて行われるものと、神に縋る事によつて楽に済む場合とある。前者は無信仰者の場合であり、後者は信仰者の場合である。

  神からの救いの綱が下つても、それを掴む事の出来ない人は罪穢が多すぎ、霊体が重くて掴む事が出来ないのである。然るにその後浄化のため、病気、災難等の苦痛が起り、それによつて罪が減るから霊が軽くなり、救いの綱え手が届く事になる。その様な訳でいくら良い教を説いても、救いの綱に掴り得ない人は、その罪の減る迄時期を待つ外はない。その時無理につかまらせても落ちてしまう。然し右の場合浄霊を受ければ楽に早く浄化される。

  浄霊によつても死ぬのは、多くの場合心から神に縋らぬからで、その人の信仰のどこかに不純な点がある事が多い。一切を擲つて神に縋る人は不治とみらるる病も大抵は助かるものである。信仰の浅い人は危機の場合迷いが生じ易いので、その途端に神の救いの綱が切れるのである。

………………………………………………………………

【お伺】私は自動車のタイヤ修理工場を経営している者であります。去る五月二十七日午前十時頃丁度私が浄霊に出掛けた後でしたが、階下より突然発火し、ガソリンタンクに引火して手のつけ様もなく、五分間ばかりの間に建坪四十二坪を全焼し、畏多い事で御座いますが階上の光明如来様も、御写真も其他お額も焼失致しました。心よりお詫び申上げます。火災の二三日前長女和子が家の内外が「キナ臭い」と申しておりましたが、斯くの如き結果になるとは思いませんでした。然し不意の事で、且私の不在中にも拘らず一人の怪我人もなく、家内一同無事でありました事は御守護の賜と厚く御礼申上げます。右の内長女が、「キナ臭い」と申したのは如何なる理由でしようか。

【御垂示】キナ臭いというのは霊界で二三日前に既に火事になつてしまつた。それで臭かつた。理由として斯ういう事がある。この人の財産に汚れがあるため浄化された。斯ういう浄化はよくある。例えば祖先が道に外れた事によつて、即ち払うべきものを払はなかつたり、出すべきものを出さなかつたり、人を苦しめたりして金を貯めたのがよくあるが、その人が信仰に入つて大きな御神徳を与えて下さるのに、過去の不純な財産が邪魔になる。即ち嚢の中が汚れていては好いものが入れられぬので、その嚢を奇麗にするのである。又こういう事もある。火事などで焼けるのは汚れを非常に早くとられる訳である。普通相場に手を出したり息子が道楽したりしてなくす事もあるが、其浄化が済むと屹度あといい事になる。よく道楽息子が、金を湯水の如く使うのは祖霊がするので、それをしないと一家断絶するのでそれを救うためで、これは割合長くかかる。然し霊的の事を人間は知らないから怒つたり悲観したりするのであるが、後はきつとよくなる。或は入信した人は或程度不純なものがとれてからは、ウンと神様から結構な御神徳を下さるもので、此人もそれである。勿論うんと財物を下さる。普通は御神徳で火事を免れるものだが、此人は不純物が沢山あつた訳だ。浄化にも時期があつて、私など二十年位借金で苦しみぬいた。今にうんと金が入ると人に話してから十年位たつて、昭和十六年に借金を全部すませた。それから予想外に金が入るようになつた。金が欲しい欲しい思う時には中々入らなかつたが、諦めて神様任せにしたらそれからどんどん入る事になつた。面白いものである。

………………………………………………………………

【お伺】光明如来様を祭つた某氏が四十二歳の厄払いのお祝いの夜、倉庫の中の衣類箪笥二竿全部盗られました。如何なる訳でしよう。

【御垂示】信仰しながら厄払するのは間違つている。それでは無信仰同様で神様が警告したのである。神様を信用してないから御守護が止る。信仰して御守護頂けば盗賊などに入られるものではない。よくお詫びする事だ、厄とか方角とか信仰していれば殆んど無関係で、正しい事なら何してもよろしい。自由である。

………………………………………………………………

【お伺】祝詞と御願事とは何れを先にすべきでしようか。

【御垂示】祝詞の方を先に上るのが本当で、お願事であるから後にすべきである。祝詞を奏げる一番の目的は霊界を浄めるにある。又祝詞を奏げると霊が沢山来る。祝詞を聞くと霊が向上するからである。又祝詞は神に対する感謝の意が中心になつている。

………………………………………………………………

【お伺】お葬式に参列の後で用足しをしたり、お墓参りをしてはいけないという理由。

【御垂示】お葬式とか、婚礼とかは人生の重大な儀式であるから、参列したらそのまま帰るのが死者に対する礼節である。よく死汚れといつて死者のそばへよると汚れるというが、これは大した意味はない。

  礼節は大事な事で浄霊に行くにも、用足しを先にすると効果がうすい。之は主客転倒であるからである。神社参拝も同様でお詣りは先にする、それから用を足すのが本当である。

………………………………………………………………

【お伺】浄霊が比較的忙しくない場合は、一時的に他の職業と兼ねてもよいものでしようか。

【御垂示】之は臨機応変であるが、本当は他の職を求めるのはよくない。神様の方にもいろんな事情があつて遅速があるのである。

  私は最初の頃よく散花結実という言葉を用いたがそういう場合もある。之は花が散つて実が実るという事で、多くの場合一時盛んになるが、花が散る時が来ると暇になるのであるが、実が出来るのは時間がかかる。人間は焦りたがるが、閑なのは一時的現象で、決して長く続くものではない。何事も始めからパツとするのはいけない。実がみのる様に始めは小さく徐々に大きくなるのが本当である。又発展しない理由は、何か神様のお気に入らぬ事がある訳もあるから、よくその心と行を考えてみるべきである。

………………………………………………………………

【お伺】遠方へ布教開拓に出た場合、最も効果的な方法を御教え下さい。

【御垂示】別にこういう方法という事はない。根本的に云つて誠である。誠の強い人は神様の御守護がつよいので、霊が強力に働くからいい結果が得られる。決して焦つてはいけない。焦ると人間の力が上になるから逆効果を来す、又その地方によつて、効果のあるなしはその土地の霊界の明暗が大いに関係がある。又産土の神の系統による事もある。熱心な祖霊の活動にもよる。自分は最善の法をつくして、後は神様にお委せすることである。又神様の方ではすべて時期と順序がある。此土地を開いてからでないと、彼の土地は開けぬという場合がある。それが人間の思惑と違うことが多い。それを人間は知らぬから、うまく行かぬと焦り出す。此注意が肝腎である。 

………………………………………………………………

【お伺】昭和二十二年入信し、二十四年一月御神体をお迎え申上げました。今回次の神様を処分致したく思いますが、如何なる方法にしたらよろしいでしよう。

(イ)井戸神様―井戸の傍にあり、毎年一回氏神様よりヘイシンの入替をする。

(ロ)荒神様―屋内。

(ハ)神明様―屋外、鏡の裏は天照大神の文字を記してある。等合計十一神あるが略す。

【御垂示】之は整理した方がよい。丁寧にやれば一つ一つ御神酒をあげお供物して祝詞を奏げ、口頭で今度光明如来様をお迎えしたため元の御座にお帰り願います。長い間御守護の御礼を言い、翌日処分すればよい。おいておく神は一柱もない。大黒様は光明如来様の前、向つて右に台を作つて安置する。妙西禅尼は戒名をつけて仏壇へ祭つてやる。鏡はしまつておけばよい。これなどはまだ少い方で、多いのになると三十も四十も祀つているのがある。いつも言う通り今迄神の力が薄い細い糸のようなもので、一本では心細いから何本もまとめて太くして掴まるのである。光明如来様なら一本でも太いから安心という訳である。

………………………………………………………………

【お伺】生後六カ月の幼児、御浄霊により高熱が続き発汗甚しく、全身粟粒大の発疹をし疥癬の様になり、元気もよく、食慾もあり、便通、発汗、順調になりましたけれ共、夜になると四十度以上の熱が出ては汗を非常にかいております。母親は是非入信させて頂き、自ら浄霊の希望でありますが家の都合でまだ入信しておりません。私が総本部へ伺うので此病人の浄霊が出来なくなりましたので、母親も非常に心配しております。入信者でない家族の御浄霊は、特にこの様な場合は御浄霊を断わつた方が宜敷いでしようか。

【御垂示】断らなくてもよい。やつてやるべきだ。汗かいたりなど非常によい。症状からみて順調な浄化である。ほんとうは病気が治つてから入信するのが本当で、病気が治つて有難く、やむにやまれぬ気持で入信するのが本当である。例えばもし治らない中に入信して死ぬ場合がある。入信してから死ぬなんてあんな信仰は駄目だという事になる、すると怨まれる。特に肺病などは余計にそうで、入信すると余計に浄化が強くなる。肺病は医者に散々かかつて、もういけなくなつてから本教へ来るので、薬毒がうんと溜つてる。それの浄化が起り、浄霊すると反つて死ぬ場合があるから、特に肺病は治つてから入信するようにしなくてはいけない。ただ生命に関係のない病気は病気の治らぬ中に入信してもよいが、生命に関はるのは治つてから入信すべきである。これなど順調だから屹度治る、そうすれば家の人も判る。又入信してすぐに又光明如来様を祀らせたりせず、段々本人が判つて信仰が進み、拝みたくなり是非という時になつてから祀るべきである。すべて物事は漸次進んでゆく事がよくそれが順序である。突然に変るのは本当でない。例えば新しく教会をひらく場合、最初は出来るだけ小さくする。人間が赤ン坊から育ち一人前になる如く、又草木の種子が段々二葉から大きく育つ。それなら根が張り枯れたりなどしない。之が大自然の実相だ。私など此仕事は六畳一間から始めた。信仰も最初は種蒔であるから話だけにしておく。それが育つに従い先方が耳を傾ける程度になつたら雑誌、新聞をみせる。その中に教修を受けたくなり教修を受けさす。そのうち病気が治つたりなどして光明如来様をお祭りする。此様なやり方で入つたのは信仰に動揺がない。急いで入信したのは所謂根が固つていないから動きやすい。之は如何なる事でもそうである。面白いもので最近新興宗教というと本教が一番目指されるが、決して一番になろうと思つた訳でない。之も最初は目立たぬよう出来るだけ大きく見せないようにした。此点世間とアベコベでその結果一番拡がつたようだ。

………………………………………………………………

【お伺】物事が順調に行かぬ場合は浄化でしようか。何かの訳があるのでしようか。

【御垂示】物事が順調に行かぬ場合は浄化の為の場合もあり、時節が来ぬのに焦るからでもある。果物が未だ熟さぬうちに取つて食うようなものである。

  その他罪穢があるとそれに相当した邪霊が憑ろうとするが、之とても一種の浄化の現れである。然し誠の心を持てば速く浄化が済み、善い心掛けと良い行をすれば運勢が開けるように此世は出来ている。

………………………………………………………………

【お伺】本教に入会させて頂き一年半になります。親が反対しますがどうしたら宜敷いでしよう。

【御垂示】そのままにしておいたがよい。時節が来ぬのであるから、無理に入会をすすめてはいけない。気長に時を待つのが一番いい、するといつか祖霊が入信しなくてはならぬ様にしてくれる。又こういう点もある、それにはその人に副守護神が間違つた心や行いをさせたりしようとしているのが、その人が入信すると、そういう間違つたことが出来ぬ様になるため入れない様に邪魔する場合もある。又よく二号や三号を置いている人で、妻君が入信し本人も良いお道だと思つていて入らない人がよくある。それは入信すると二号や三号もやめなくてはならぬ。それが恐くて入らぬ。そのくせ人には奨める。そのうち二号三号もおけぬ境遇になり初めて入信する人もある。 

………………………………………………………………

【お伺】連れ子をして再婚した者ですが、夫に愛情がなくこの御道も理解して呉れません。離婚した方がよいか迷つております。御指導願います。

【御垂示】お指図は出来ない。之は神様にお任せしておくのが一番いい。決して無理をしたり、荒立てたりしてはいけない。神様にお任せし時を待つていれば必ずうまく解決する。罪穢相応に苦しむのである。人間は霊層界に籍があるが、夫婦の中一方が磨けて向上し、余り両者の位置が放れると、どうしても生別れ、死別れする事になる。

  右の理によつてどちらかが磨けた方へ接近しなければ共白髪まで添い遂げる事は出来ない。

………………………………………………………………

【お伺】夫が本教のお仕事に理解なき場合、大乗的に考え夫に相談せず種々な御用をさせて頂いておりますが、小乗的にみれば悪と思われる様な事を押切つてやつている場合、やがては行詰りや衝突が起るかと思い不安を感じておりますが、今後如何にしたらよいでしよう。

【御垂示】之は極端である。いいには違いないが大乗的に良い事でも、夫婦の円満を欠くのはいけない。夫に知れても大した悶着の起らぬ程度に常識的に臨機応変にすればよい。以前天理教の信者であまりに夫と合はぬので布教師の先生に相談した処、あなたは神様と夫とどちらが大事かときかれ、神様が大事というのでついに夫を捨て生別れたが、其後腕の病で治らず私が治して今は本教で一生懸命やつている。いくら信仰でも家庭生活を破壊するのは社会秩序が乱れるから間違つている。

………………………………………………………………

【お伺】私は、廿三年九月迄長年医薬の厄介になつておりました。喘息も御浄霊により楽にさせて頂き、主人は廿三年十一月、私は同年十二月入信致しました。未だ御神体はお祭りしてありません。廿四年三月頃から再び御浄化を頂き、四月頃は一時大変痩せましたが、五月頃よりは午後になると熱が出て、四時五時頃迄は激しく頭痛発汗があります。翌日朝は気分がよいのですが、膝のあたりが震えて悪道路を馬車に揺られる様に震え、約四十分程四回に亘つて震えが来ると言う状態が、一日置きに来るのでありますが、何か霊的な関係がありましようか。又今後如何にしたらお救いが頂けましようかお教え下さい。

【御垂示】震いが来るのは寒気で、つまり浄化熱で結構である。病気は凡て一日おきによいわるいがある。光明如来様をお祭りするとよい。早く治すには信仰に入れば神様がよくして下さる。よくして下さるのは「ない命をやるから世の人を救え」という意味であるから、ただ治つただけではいけない。多くの人を救えば益々早く治して下さる。神様は人間が役に立てば出来るだけよくなるようにして下さるし又悪くならない様にして下さる。

………………………………………………………………

【お伺】弟子が先生を又は普通の御守の人が大浄力の御守の人を浄霊しても差支えないものでしようか。

【御垂示】差支えない。その人を浄霊する場合は自ら位置が変る。される方は先生でも浄霊する場合は神様がその様に守るのであるから差支えない。

  融通がきかなくてはいけない。相手が固苦しければ此方も固く、さばけておればこつちもさばける。相手により自由に応身する。丁度玉が転がる様に、聊も角があつてはいけない。所謂円転滑脱である。女には女に向く様、男なら男に合う様その相手の好む様な事を話してやる。処が世の中には自分の好きな事を相手に押つけ従わせようとする。これは応身ではないから嫌はれる。又こちらから話すより相手の話を聞く方がよい。即ち話上手より聞上手になる事である。

………………………………………………………………

【お伺】御浄霊の際患者に対しどの程度親切にすべきでしようか。

【御垂示】親切にすればする程いい。程度はないが順序は大事で、神様第一でなくてはならない。然し人によつて区別するのはいけない。どこまでも公平であるべきだ。 

………………………………………………………………

【お伺】教師中に浄霊をしている患者の悪い部分と同じ場所に、痛み等を感ずる人がありますのはどんな訳でしよう。

【御垂示】人間には日の系統と月の系統の人がある。月の系統の人の場合先方の悪い所が映るのである。月の系統の人は汚れを水で洗うからで水が濁るのである。それと反対に日は焼く働きであるから焼けばやく程火力は強くなる。処が月の系統の人は病気を引受けるから身体が弱る。以前あつた人の道の教祖などもこの贖罪療法をやり、信者の病気を引受ては神様にお振替を願うのである。処が願者が段々殖えて来たので、準教祖といつて身代りを約十人程作つたのである。

………………………………………………………………

【お伺】重病人で脈搏以外に臨終を知る方法を御教示下さい。

【御垂示】死期を知るのは霊感が一番よいが、体的にも種々な徴しがある。即ち死相であるが、昔から眼の縁が黒くなり、小鼻が落ちる事など謂うが、一番よく判るのは顔が死人の様にみえる事である。又足の甲に浮腫が来ると大抵は駄目である。然し甲の上から上方へ平均して浮腫のあるのは一般的病気症状で、之は生命には関わらぬ。又唾が出なくなつたり、唇がギザギザに乾くのもいけない。目に力のないのも先づ見込みはない。特に頭が変になつてトンチンカンな事をいう様なのは、既に本霊が抜けているのでこれは絶対駄目である。

………………………………………………………………

【お伺】民族の平均年齢に就て、

日本人三十五歳

米国人五十歳

未開人二十歳

  と発表されておりますが、文化民族の方が高齢なのは何故でしようか。

【御垂示】これは昔の統計である。今日本人は四十七歳、米国人は六十三歳平均である。人間は頭をつかう方が長生きする。つかわぬ方が早死である。神が人間に与えてある頭脳を、出来るだけつかう方がつよい。心配で頭をつかうのはいけない。又嘘をつくと始終気が咎めるから早死する。故に正しい心で嘘をつかぬ事で、之が長寿の秘訣である。

………………………………………………………………

【お伺】二十二年度国勢調査の結果にみても婦人に長命が多いのは何故でしよう。

【御垂示】一家を支える主人即ち父親の方が一番身体を大事にする故早死する。大事にする息子程弱いし。どうでもいいと思う子供は丈夫である。今迄の健康法は逆であつたのだ。故に体は打棄つておいた方が長命である。

………………………………………………………………

【お伺】睡眠時間は大体どの位が適当でしようか。又睡眠と健康に就て。

【御垂示】医学の言つている通りで大体良い。赤ン坊は十時間か十二時間、青年から中年で八時間位、五十を越すと七時間、六十を越すと五時間で年とるに随つて少くてよい。睡眠は不足の方がよい。私など常に不足している。医学では睡眠不足は結核の本などというが、之は間違つているので、実際私など今四時間乃至五時間である。活動時間が多くなるほど健康は増す。先年東京市内で各階層の結核患者数の統計をとつた時、一番結核者の少いのは花柳界の女であつた。処が此職業の女が一番睡眠不足であり、生活が不規則である。之は実際の結果である。頭は大いに使つた方がよい。頭を使う程長生きする。エヂソンなど研究室にとび込むと一週間位不眠不休だつたと言う。助手達もそれを真似たが、段々慣れると皆出来るようになつたという。睡眠不足の方が健康にいいと思えばそれでよい。英国の故グラツドストーンは椅子に掛けたまま五分位居睡りして精力を回復したというが、私も同様である。

………………………………………………………………

【お伺】白血球と赤血球の関係に就て。

【御垂示】血液の中に毒素があり、それが浄化によつて血液中の微粒子の毒分だけが白血球になる。それが膿である。

………………………………………………………………

【お伺】人間には玄米と白米と何れが宜しいでしようか。

【御垂示】玄米と白米との中間即ち七分搗位がよい。玄米はまづいし又胃腸が玄米を咀嚼するようになつてない。白米は余り精製し過ぎているから糠分がなく白米中毒によつて脚気が起り易い。又化学肥料の害も軽々には出来ない。白米に微量ではあるが、硫安の如き毒素が含まれる以上人間は弱る訳で、此点からも無肥料にすべきである。

………………………………………………………………

【お伺】動植物の病気も矢張りそれぞれの霊の曇りの浄化作用なのでしようか。又動物の霊界に於ては霊の向上等により変動があるものでしようか。

【御垂示】此場合獣類、学問上は人間も動物にしているが、動物と植物とは違う。植物には浄化はない。何故かといえば罪を犯す事はないからである。下等動物程罪はなく、罪は人間だけである。人間は自由を与えられている。自由があるから地上の経綸が出来る。獣類とても人間は自由に使える。植物には浄化作用がないが、黴菌や害虫が発生するのは何故かというと、植物は人間に支配されているから人間の罪が植物に反映し、害虫等が発生する。松食虫なども人間が霊界を曇らすからである。すべて地球上凡ゆるものは人間本位である。一家が栄える場合とか徳を積んでる主人の庭先の樹木は勢がよい。であるからその屋敷の樹によつてその一家の盛衰が判る。松は一番感受性がつよい。従而木には霊の向上などない。一切人間次第である。

………………………………………………………………

【お伺】動物の浄霊を頼まれますがもつたいない様な気が致しますが如何でしようか。

【御垂示】光明如来様は虫螻迄もお慈悲を垂れ恵んで下さるから、救いの意味からいうと動物でも人間でも同じ様に思つていいのである。又浄霊は下等動物程効果がある。

………………………………………………………………

【お伺】憑霊と問答を自由に出来ねば御浄霊施術上不完全ではないでしようか。又憑霊と問答なし得ることを体得するには如何したらよろしいでしようか。

【御垂示】これは危ない事だ。憑霊現象は気を付けないといけない。弊害もある。憑霊に口きらせるとその人にいろんな霊がかかる。その結果精神病になりやすい。霊問答は誰もが好奇心をもつが、問答は求めてすべきものではない。浄霊の場合先方から霊が浮いて出る事がある。そういう場合問答するのは自然であるから差支ない。そういう場合は霊の目的をきく。又動物か人霊かをきくのであるが、憑霊は大抵祭つてもらいたいような事が多い。其他狐がからかう事もよくある。そういう場合騙されまいと努めるよりは、馬鹿になつて騙されてやると却つて早く暴露する。

………………………………………………………………

【お伺】或人の十一代前の方で納棺致しました処、蘇えられ、そうして「私は薬師如来の処へ行つて来ました。其処は現界でみられない何んとも言えない美しい処であり、お前は私の処へ来るのは未だ早い、もう一度現界に帰りなさい。向う三カ年命を延ばしてやる。それまでは現界で医者をやり人を救いなさい」と申されたと言いました。その際証拠として仏像と巻物を出したとの事で、そのものは未だ仏壇に祀つてあるそうです。何か霊的関係がありましようか。

【御垂示】霊界からかえされることは本当にあるが、薬師如来というのは観音様の別名で観音様は薬をのまして病気を治された。これは霊界が夜だつたから溶かすより固めた方が早く効果があつたからで、昼の世界になると反対に火素の量が多くなるから溶かす方が早い。私の行わせる浄霊はそれである。釈迦も薬草為本という経文を作つて病気は薬で治せと説いたのである。

………………………………………………………………

【お伺】或男で何時の間にか舌が二つに裂け、一方が感じがなくなり、食事の際邪魔になると申し自分で鋏で切り取り、その後何事もないそうですが何か霊的に訳がありましようか。

【御垂示】大いに訳がある。前の世で二枚舌をつかい、そのため人に怨まれ罪をつくつたからで、その罪が未だ消えないうちに生れて来たため、二つの舌になつたのである。生れながら二枚の舌のある人もある。

………………………………………………………………

【お伺】歯の生え代る時、前の歯が抜けないで八重歯が出来た時、そのままにしておくと口の恰好が悪くなりますが、御浄霊により古い歯が抜けるでしようか。

【御垂示】歯の出ないうちに浄霊すれば治る。原因は前生死の刹那歯を傷害した為である

………………………………………………………………

【お伺】死産、流産は何か霊的関係がありましようか。又此様な胎児は仏様としてお祭りする場合どうすれば宜敷いでしようか。

【御垂示】霊的の場合と体的の場合と両方ある。根本はその人の罪穢による。罪穢にも種類がある。死産の場合の罪穢とは子孫を繋げぬ罪、系統の絶やされるような罪、例えば昔その家の祖先が何かの原因で人殺しをし、殺された人の家が断絶したその怨みの如きもある。体的原因の方は姙娠中に薬をのんで死産する事がある。薬は毒だから姙娠前に薬を服んだ場合体力が弱る。その結果胎児が弱く出来る。親の毒は子供に行きやすいものである。弱くなつた胎児は出産の時窒息死する。

  流産も霊的と体的あり、体的原因は化膿性腹膜である。子宮が膨脹する時つかえる。その結果流産する。腎臓部を浄霊すれば治る。霊的の方は妾のある場合とか、約束した女を欺いた罪等で妻え子供が出来ると右の女や、妾などの生霊が邪魔をする。そういう色々の罪によつて育たないのである。それ等何れも本教の信仰に入れば殆んどなくなる。流産の場合五カ月以上は普通の人間として祭るべきでお寺で戒名をもらつて簡単な葬式すればよい。五カ月で人間の形が出来るからである。然し四カ月か三カ月でも祟るのも偶にはある。

………………………………………………………………

【お伺】出産後胎盤の処理に当り方角をみたり、又産婦の寝床の真下に埋めるなら方角をみないでもよいと言われていますが正しき処理法を御教示下さい。

【御垂示】人の踏まない所ならよい。胎盤は子供がよい加減大きくなるまでの間の必要のものである。方角はどちらでも構わぬが、汚物であるから、鬼門は避けた方がよい。それ以外どこでもよい。

………………………………………………………………

【お伺】最近人口問題に関し政府に於ても避姙薬等の販売を許可する様ですが、

(一)生活難のために母体が健康なれどもやむなく堕胎した場合、胎児の霊は如何なりますか。

(二)又堕胎をしたため両親は如何なる罰を神より受け、又胎児の霊により両親の将来は如何なるでしよう。

【御垂示】堕胎は悪い。産児制限とは異う。子供が出来ると生活困難になると思うが決してそんな事はない。子供は自身の食うだけのものはもつて来るものであるから、子供が増えればそれだけ必ず収入はふえるものである。又堕胎は殺人であるから大間違いである。産児制限は堕胎に比して罪は小さい。

………………………………………………………………

【お伺】姙娠の方法に就て。

【御垂示】天地自然の法則に適えばいい。自然にその方法は気がつく。子宮が膣を外れてる時姙娠しない。それは前からおさえるのが後屈で、其反対が前屈で、これが第一の原因で、第二は子宮の発育不全で之は屹度お腹がかたいので子宮が圧迫されて生育が悪い。又腎臓萎縮は性慾が欠乏する。卵子が弱いと精虫を吸収する力がない。  不感症、鈍感などは皆腎臓萎縮の為で、女によつては粘液がアルカリ性のつよい為、精虫を殺すと医学ではいうが、そういう事もあろう。又男の方も腎臓が弱ると射精力弱く、子宮口までとどかぬ為もある。まだ種々の原因もあるが、公開の席上では言えない。

………………………………………………………………

【お伺】神経痛、頭痛、及び尿量と天候について。

【御垂示】これは確に関係はあるが大した事はない。元来汗は小便と同じものであつて、寒い時には冷えるので汗になつて排泄されぬ為に小便が頻繁に出るのである。女学生には太つているのが多いが、それは学校へ行つて小便を我慢する癖がついている。其為尿が腎臓から外部へ滲出してそれが身体へ溜る。それで身体が太るので之が健康体と誤まられ易いが、実は俗にいう小便太りであつて、之が病気の原因になる。こんなのは固太りで一見丈夫そうにみえるが、一度病気が起ると悪性である。此好例として或娘が固太りで神奈川県で三人の優良健康女学生が表彰された一人であつたが浄化が起り終に死亡した。余剰尿は腎部から背中を伝つて背部に溜り諸病の原因となる。よく背部張りきつて筋肉隆々とみゆる人があるが、これが実は尿毒である。小便を我慢するのは右の如く不可であるが、頻繁に尿をするのも本当ではない。之は腹膜のため膀胱が圧迫され萎縮している為である。

  神経痛、頭痛等が天候に左右されるのは、天気の悪い時は太陽の光線が少く霊界に火素が少いから毒が固まり、その圧迫で痛むのである。天候に左右されるのは固まる痛さである。

………………………………………………………………

【お伺】流行性感冒が流行しつつある様ですがこれは黴菌による誘発でしようか。

【御垂示】黴菌は無限にいる。顕微鏡でみえるのは極く大きいものである。至小至内どこまでも無限に小さい。であるから濾過性黴菌はある事はある。併し何時も言う通り感冒は最も結構な浄化作用であるから喜ぶべきだ。

………………………………………………………………

【お伺】脊髄カリエスは巫子等により先祖の因縁を査べた方がよろしいでしようか。

【御垂示】因縁をしらべても仕様がない。祖先の罪が霊界の浄化によつてその残滓が子孫の誰かの脊髄へ流れて来る。実にその膿の量は多量である。人間の身体全体を膿としてもカリエスの膿はそれ以上に多量に出る。之は全治はするがせむしはすつかり治らぬ。瘤はづつと低くなる。

………………………………………………………………

【お伺】当年三歳の男子、乳離れした時から御飯や野菜を嫌い、魚及び肉類のみしか頂きません。一日中肉類か魚をやりませんとヒイヒイ泣きます。どういう訳ですか。

【御垂示】動物霊が憑いているか、動物が人間に再生したもので、まあ猫とか犬のようなものだろう。前生の動物霊の性能が、転生しても性癖は多少は残つているものである。入信して気永に浄霊すれば段々快くなる。

………………………………………………………………

【お伺】歯石が早く出来る人と遅い人とがありますがどんな原因でしようか。

【御垂示】歯石のたまる人は歯が軟いからで、軟いのは弱いからで、ということは身体が弱つているからである。最近小学生は九割虫歯があるというから、如何に弱体であるか寒心に堪えないのである。

………………………………………………………………

【お伺】俗に福助、医学上では脳水腫と謂われる者は霊的のものと存じますが、如何なる原因によるのでしようか。

【御垂示】霊的も少しあるが大体体的である。頭へ水が溜つているのである。浄霊で治る。霊的のものは治るのと治らぬのとある。これは前の世に頭をぶつて非常に内出血して死んだのと、今一つは水死の際水を呑み逆さになつたのと、此二つの生れ変りである。霊の憑依ではない。

………………………………………………………………

【お伺】生れた時は気のつかない程度ですが、大きくなつて脱臼している事が判つた場合、普通はギブスを嵌めれば治ると申しますが御浄霊により治るでしようか。

【御垂示】脱臼は浄霊によつて治る。レントゲンでみる場合でも違う事がよくある。レントゲンでみて脱臼してるとよくいうが、浄霊してみると脱臼でない事がある。

………………………………………………………………

【お伺】四十一歳の男子、太陽の直射は勿論、傘等で光線を避けても熱気のため全身が段々熱くなり苦痛が増し、特に直射の個所は腫れ、後に薄皮と共に血の固まりがはげます。夏季は特に其病状が甚しく、又七八年前よりは火にあたりましても、寒さにあいましても身体が温まりますに従いその症状を呈します。以上の症状は霊的に何か関係がありましようか。又治癒致しましようか。

【御垂示】之は霊的ではない。何か特別の毒血の為で、親とかおじいさんなど変な薬を飲んだものであろう。よく鶴の紅点とか虎の爪、猿の睾丸など、のむといいなどというが、そういう変なものをのんだ毒素である。

(教えの光  昭和二十六年五月二十日)