之はよく聞かれるから、簡単ながら弁明する事にする。確か昭和二、三年頃だったと思うが、出口先生の実母が病気危篤の際、先生を枕元へ呼び言はれた事は、「私は若い頃、有栖川熾仁親王の国学の先生が私の父であった。その縁で、宮様が京都へ御滞在の折、私は侍女として仕えてゐた。処がその時、宮様の御手がついて生れたのがお前だ。であるからお前は宮様の落し胤になる。私は最早生命がないかもしれないから、その事を知らせなくてはならないから招んだのだ。」との話で、之は私は先生から直接聞いたのであるから確かである。
此事あって以来、先生は俄然として変られた。それは生活一切が、皇族の如くで菊の紋章着きの羽織などを着るといふ訳で、而も、信者に対して、現在の天皇は北朝であるが、日本は南朝が正系であるといって、暗に自分が天皇であると思はせるように言ふので、私は之は危いと思ったのである。今日なら熊沢天皇もある位で何でもないが、其頃としては大問題である。そればかりではない、旅行の場合なども駅に着くや青年隊が制服を着、数十人列をなし挙手の礼をするのは勿論、駅を出るやオートバイが先頭に、自動車数台で疾駆するので、恰度鹵簿(ロボ)そのまゝであったので、私は驚いたのである。従而、之等も弾圧を受ける主な原因であった事は勿論で、先生初め幹部級にも相当の人物があり乍ら、此点に気附かなかった事は、実に不思議と思ったのである。
今一つ斯ういふ事があった。何しろ出口先生は、自由奔放、天空海闊的であったから、日常生活に於ても、全然無軌道的で余りに本能主義的であった。従而筆にかけないような事も種々あったので、自然信者間に於ても風紀の紊乱甚だしく、私は之ではもう駄目だと思って、身限りをつけたのが昭和七年であった。それから二年間準備をし、九年九月十五日脱退したのである。而も私の一党数十人が一時に連袂(レンベイ)辞職したのであるから、開教以来空前の事として機関雑誌にデカデカに載せられたのであった。処がそれが奇効を奏したのは全く神助の賜と言ふの外はない。というのは、それから一年有余を経た翌十年十二月八日、大弾圧を蒙ったので、私も危く巻添えを食ふ処であったが、雑誌上に辞表の事が載ってゐたので、難を免れたのである。其時私と同級位の幹部は悉く東京を追放され、それぞれ田舎へ隠遁したにみて、無論私も同じ運命に逢ふ処であったのである。
(自観叢書九 昭和二十四年十二月三十日)