入信以後

それから私は、信仰に関してどこまでも深く究めなければならない、という覚悟を以て大本教に関する書籍、特にお筆先は繰返し、繰返し熟読したものである。尤も大本教に於てもお筆先を唯一の聖典として、拝読を奨励したからでもある。処がお筆先というものは、身魂相応にとれるといい、判りそうでなかなか判らない。それを判らうとする努力、つまり神秘を暴こうとする意欲から熱が出るのである。茲で神秘に就て少しかいてみるが、人間の意欲の中で、此神秘を探りあてようとする事程魅力あるものはあるまい。信仰に熱が増すのは神秘探究心からである。従而昔から神秘の多い宗教程発展するのである。尤も神秘の表現化が奇蹟であるから、神秘と奇蹟とは切っても切れない関係にある。本教の異常の発展も之が為であると共に、既成宗教不振の原因も是にあるのである。

面白い事には宗教と恋愛と相通ずるものがある。宗教の神秘に憧がるる点と、恋人に憧がるる点とがよく似てゐる。従而信仰の極致は神への恋愛である。此点恋愛と異ふ処は、誰かが言ったやうに、恋愛は結婚が終極点であるとの通り、結婚が成立すると大抵は魅力の大半を失ふものである。処が神への恋愛は、其点大いに異う。といふのは、一つの神秘を暴けば、次の神秘を求める、知れば知る程愈よその奥を究めようとする、そこに信仰の妙味があるのである。

以上のような意味で、その頃の意欲は、神秘を探るには神人合一の境地に到らなければならないと思って、大本教が応用した古代に行はれた鎮魂帰神法という一種の修業法があり、仏教の禅とよく似てゐる。それによって身魂を磨こうと一生懸命したものである。それと共に、自己ばかりではない、他人に向って之は帰神を抜いた鎮魂のみの法がある、処が実際は他人に向う場合、鎮魂ではなく浮魂である。鎮めるのではなく浮かせるのである、浮かせて口を切らせる、それは憑霊に喋舌らせる事であって、一時は随分喋舌らしたものである。それによって霊界の実相と憑霊現象を知りたいからである。之は霊界叢談の著書に出てゐるから参照されたいが、此方法も霊界を知る為には、幾分の効果はあるが、弊害も亦少くないので、初心者は触れないように私は注意してゐる。

(自観叢書九 昭和二十四年十二月三十日)