私が信仰生活に入ったのは、前述の如く、大正九年夏三十九才の時であった。私の性格と入信の原因に就て述べてみるが、それまで私といふものは無神論者のカンカンで、神も仏もそんなものはある筈がない。そういふ見えざるものを信ずるのは迷信以外の何物でもないとしてゐた。といっても不正な事は嫌だ。善い事はしたいといふ信念は常に燃へてゐた。こういふ事もあった。明治神宮を代々木へ建立する時、全国民から寄附金を募集した。私も町内の役員からその勧誘を受けた。其頃私は小資産家の部に入ってゐたので、町会役員の方では三百円乃至五百円位の推定をしてゐた事は後で判ったのである。処が私は金五十円也を寄附をしたので、意外の少額に驚いたらしかった。それに就て私の理由は斯うである。「世界の凡ゆる国家を見渡した時、神社仏閣の多い国程、その国家は振はない。例えば伊太利、ギリシャ、インド、ビルマ、中国等であり、新進のアメリカやイギリス、其頃のドイツ等の如きは、宗教的建造物は余りない。といふ訳で、明治神宮の如き大きな神社が一つ殖えるという事は甚だ面白くない」といふ解釈によった為である。
そういふ位だから、其頃の私は神社の前を通っても、決して頭を下げない。何となればお宮とは、職人が木の箱と屋根を造り、扉があり、その中へ鉄製の鏡か石塊、文字のかいた紙片のようなものが入ってるだけであるし、寺院の方は阿彌陀様や観音様など彫刻師が木を刻み、又は鋳物師が金属で鋳たものであって、金箔や鍍金できらびやかに見せ、それ等をいとも勿体らしく厨子へ入れたり、須彌壇(シュミダン)の上高く飾ったりして拝ませる。又神主や坊主が衣冠束帯や袈裟衣を美々しく着飾り、さもさも有難そうに、恭々しく祝詞やお経を奏げ礼拝するといふのであるから、実に馬鹿々々しい限りである。斯ういふものは悉く偶像崇拝であって、単に人間の気安め以外の何物でもないのであるから、社会の為、凡ゆる迷信はよろしく打破しなければならない。といふ訳で、偶々法事などで、寺の本堂に参列する場合、何時も私は居睡りの連続である。
処が私には一面又妙な考えの下に、慈善的行為が好きであった。人を助ける事が愉快でならなかった。私は信仰生活へ入るまでの数年間、救世軍へ毎月一定の寄附をしてゐた。その為、牧師が時々来ては信仰を勧めた。曰く、「救世軍へ寄附する人は殆んどがクリスチャンであるのに、貴方は珍しい人だ。然しそういふ心の人は必ず信仰へ入れるから是非教会へ来て呉れろ。」といはれたが、どうしても私は行く気になれなかった。その理由は斯うである。当時救世軍は免囚保護事業をしておったので私は考えた。「もし救世軍が救ってくれなかったら、出獄した囚人の誰かが私の家へ入り、被害を受けたかもしれない。それを逃れ得たとしたら救世軍の御蔭であるから、其事業を援助すべき義務がある。」といふ。頗る合理的観念が私をそうさせたのである。
斯ういふ事もあった。私の家に傭はれてゐた一家婢があった。此女は肺病になって郷里へ帰ったが、家が貧しい為邪魔にされ、進退谷って私に救ひを求めに来た。私は憐愍の情制え難く、彼女の食費医療費等、必要な費用は何程でも送金してやるといったので、彼女は喜んで郷里へ帰った。それは房州の或村で、その村の人々は不思議な慈善家もあるといって評判になったとの事で、私は本人を助ける事よりも村の人々に良い感化を与えた事の方が大きいと思ひ、僅かな金で功徳をしたと喜んだのであった。処が私の周囲の者は、肺病なんか死ぬに決ってゐる。それを助けてやっても詰らないではないかといふので、私は斯う答えた。「治って御恩返しを期待する事は本当の慈善ではない。恩を施して徳を酬ゐさせるといふ一種の取引だ。故に報恩を期待しないで人を助ける。之が真の慈善ではないか。」といった事もある。
(自観叢書九 昭和二十四年十二月三十日)