吾々は軍閥フワッショの桎梏から解放され、ヤレヤレと思ふ間もなく、今度は形を変へたフワッショが今将に擡頭せんとしてゐる。而も言論機関の殆んどがそれを支持してゐる点に、頗る重大性がある。丁度軍閥時代自由主義が影を潜め、軍国主義謳歌と同様の状勢である。
一例を挙げてみよう。今回の食糧メーデーの参加者廿五万を人民の声として取扱ひ、論議を建ててゐる。勿論彼等も餓死に直面してゐる以上、藁をも掴む心境に在る事は議論の余地はない。又彼等を援助すべくデモを行ふ指導者達も決して非難する点はない。然し乍ら茲に問題とすべきは、指導者ではなく煽動者の態度である。此際の飢餓を利用して大いに党勢拡張に資せんとする野心の包蔵を憂慮するものである。
街頭に赤旗を担ぎ声を嗄らす民衆以外、黙々として生産に励しみつつある大多数の人民もある筈である。然し乍ら飢餓突破の点のみからいへば、人民の誰もがは勿論一致してゐる。然し乍ら後継内閣の問題は別である。今や生れたばかりの保守内閣に対する反対の声は、街頭に躍る者のみを規準としては考へられ得ない。何となれば、廿五万は今回総選挙の投票者二千八百万からみれば、百万の一にも足りない数であるからである。
此意味に於て真の輿論を確定的に観る方法としての総選挙であり、投票数の多寡によって知る以外最良の方法はない筈である。故に、第一党、第二党合同の保守内閣こそ民意を代表して居り、民主主義内閣である。あまりにも明白なる事実を無視し、第三党以下の少数党の内閣組織をサモ民主主義的なるかの如く見せ掛けやうとして居る言論機関の態度は寔に解するに苦しむ処であり、新日本建設に対し寒心に堪えざる所である。
是を以て此を観れば、日本現下のジャーナリストは小児的新しきものへの憧憬か流行を追ふ軽薄心理か、悪意にみれば某国の提灯持ち以外の何ものでないであらう。
而して今日の食糧危機は如何なる内閣が出現すると雖も解決は困難である。唯だ最後の方法としては、国内の衆智を綜合し、最善の努力を尽すだけが残されてゐる手段に過ぎないのである。従而、吉田氏が各党に対し、総協力を懇請したのも当然である。従而、それに反対した党は、国家人民よりも自党本位と見做されても反す言葉はあるまい。此重大なる危局に対し猶自党の利益を考へる政党こそは、非民主主義であると共に、正しく人民の敵である。
而も吉田内閣は出現もせざる中から、非民主主義となし、極力反対を浴びせてゐる態度は不可解である。先づ組閣後の成果によって批判すべきである。茲で特に言ひ度い事は、共産党が百七十万票、五人の代議士を以て、民意を代表してゐるかの如く振舞ってゐるが、之はあまりにも国民を愚弄してゐる。
もし之が幾分、政治に反映するとしたら、それは少数者が多数者をリードするといふ専制以外の何物でもあるまい。共産主義専制は真平御免である。君等はマッカーサー司令部から警告を受けた政府を嘲笑したが、人の身の上ではない。今日は君等自身が同じ運命に置かれてゐるではないか。
嗚呼、右に寄らず左に倚らず、時流に阿(オモネ)らず、絶対公平なる見地に立ち、毅然として堂々の論陣を張り、常に民衆をして正しき理念にリードするジャーナリストは日本に出現の可能性はないであらうかと、吾々は憂慮に禁(タ)えないのである。 因みに私は、何等政党に関係なく、官歴も肩書もない一平民である事を附け加へてをく。
(昭和二十四年)