信仰批判を批判する

偶々新年号の某雑誌をみると、左の如きインチキ宗教を巡る座談会なる記事が出てゐた。其顔触れをとみれば、医博金子準二、仝式場隆三郎、明大教授小熊虎之助、日本奇術学校長石川雅章の四氏である。読んでみると、彼の有名な璽光尊と、最近社会を賑はしてる踊る宗教と此二つを主にし、神霊問題を採上げて、大分こき下してあった。之に対し、記者は公平な立場に立って、批判をしようとするのである。

君達の言ふ如く、璽光尊や踊る宗教の如き神憑式無軌道的宗教には、吾等と雖も顰蹙ものである。寧ろ信ずる人があるのは不思議とさへ思ってゐる。といっても新興宗教でありさえすれば、無差別的にインチキ邪教であると片づけてしまふ、インテリやヂャーナリストの浅薄な態度も同様顰蹙ものである。

何となれば、今日立派な宗教として尨大な教勢を形造ってゐる宗教と雖も、その教祖在世中はインチキ邪教として社会から冷遇され、遠島や投獄は勿論甚しきは生命にまで及んだものさえあるのは何人も知らぬものはあるまい。ひとり宗教家のみではない。コペルニクス、ガリレオ、ソクラテス等の科学者、教育者でさえ、悲惨な運命を甘受せざるを得なかった。

新宗教が、新学説が、新発見が出ると、その殆んどは異端視されるといふ事実は、古今東西を問はず、定型的にまでなってゐる。而も、それが新しければ新しい程、大きければ大きい程、迫害も又大きい。最も大きいのは、彼の偉大なる神の子キリストであったにみても肯かるるであらう。

(昭和二十四年)