阿呆文学 東西愈々入れ替り

今度此度、此阿呆、ありとあらゆる日本に、在る宗教を検(シラ)べたら、コラ又吃驚仰天じゃ、大なり小なり宗教と、名の付くものはどれもこれも、西で生れたものばかり、基督教や仏教や、回々教や道学教、まった近くはお互が、産湯(ウブユ)を使った日本でさへ、悉(ミナ)箱根から西の方、出雲の国や丹波市、岡山大阪京都在、等から生れたもの許(バカ)り。

開闢以来の昔から、日輪様とお月様は、東の空からお出ましに、なっては西の方に向き、お照しなされてグルリッと、一廻りしては東から、西を照して又循る、と言ふ事を繰返す、そんな事は三つ子でも、知ってゐるのは当然(アタリマエ)、此忙しいのにべらぼうな、判り切ったる寝言をば、聞かせる等とは怪しからぬと、怒り給はず例に依り、阿呆の言ふ事味はへば、満更悪くもありますめへと、一寸阿呆も自惚(ウヌボ)れて、ぼつぼつ書いてみやうで御座る。

開闢以来タッタ一日、西から月日が出た例し、あるを聞いた事がない。すると月日の御(ミ)光は、東の方から西の方を照してゆくのは大宇宙の、難しく言や法則と、やら申すので御座る、此法則から推して行きゃ、真の光の宗教は、東から出て西の方を、照してゆくのが法則で、あるのに今の今迄は、西から東を照すといふ、法則に外れた逆様な、教へや救ひである為に、成程世界人類は、いくら信仰したとても有難がっても幸福や、真の平和は得られない。

とうとう惨(ムゴ)い今の状、九分九厘迄行詰り、どうにも斯うにもならぬ時、待ちに待ったる東方の、光は東方日本国、其名も東の京(ミヤコ)と言ふ。大東京の御膝元で、オギャアと今年の元旦に、産声挙げたは東方の、光の本の観音会、東に生れた宗教は、最初であって最後であり、之が唯一の救世教、之から天の日月と、歩調を揃えて東から、西へ西へと照しゆき、日本は愚か唐天竺、大千世界の果までも、照して救ふ、すばらしい、万教帰一の二度とない。世界救済の大神業、等と大きな法螺じゃない、三千世界の救ひ主、観音様が阿呆めの、指とペンとを使はれて、アラアラかくの通りで御座る。

(光明世界三号 昭和十年五月二十一日)