取締当局に要望する

何時の世にも淫祠邪教の絶えない事は歴史の示すところで、今日と雖も同様である。それが終戦後特に甚だしく全く雨後の筍の如く後から後から表はれつつあるという事実である。今新宗教の中その幾つが真の価値があり、存在の理由を具備してゐるかを検討するとすれば、まことに寥々たるものであろう。勿論、取締当局としても訝(イカ)がはしいものに対しては厳重取締りを行うのは当然で、職責上常に鋭い眼を通して公正なる批判に誤りない事を期しているのは当然である。

しかも寛容に過ぎる時は、怪しげなものの簇出跛扈(ゾクシュツバッコ)の危険もあるから注意を怠る訳にもゆくまい。それらによって新宗教とさえいえば十把一からげ的に疑惑の眼を以て見るのは又止むを得ない事でもあるが、如何に新宗教であっても、全部が全部邪教と断ずる事は出来ない。ここに問題がある。それは今日現存せる既成宗教をみれば新しきものは数十年以前から、旧きは数千年以前からの歴史を有っており、長年月の間には多くの訝がわしい宗教と混同され、辛い憂目を凌いで来たことも想像に難からないのである。故に今日厳存しているものは真に価値ある一粒選りのもののみといってもよかろう。以上によってみても今日現われつつある多数のものの中にも、幾つかは価値あり生命あるものが残るのは敢て不思議ではあるまい。勿論当局に於ても此点充分考慮されてはいようが、吾等が遺憾とする処はただ欠点のみに眼を向け取締法規に対照するの一事に拘泥する嫌いのある事である。

もっとも当局としてはそうする事が当然であろうが、吾等が切望するところは、右の如き取締りの面とともにその反対の面にも眼を向けられたい事である。

というのは本教などの実際面であって事実国民の健康増進に如何に役立ちつつあるか、社会人心の善化に如何に裨益しつつあるか、法規や教育でも解決の出来ない社会の欠陥に対し、如何に効果を挙げつつあるか等々のプラスの面であって、宗教ならでは解決不可能という困難な問題も多くこれに対し吾等は常に打っつかっているのである。随而数ある宗教中、要は実際価値を規準として比較検討されたい事である。この方針を以ってすれば疑惑の雲霧も晴れるとともに、新聞雑誌のデマ記事等に災いされる事もなくなるであらう。

とすれば吾々宗教人は安心して、能う限り救世の活動に専念され得るのである。

敢て吾等の抱懐する希望を、赤裸々に述べたのである。

(光新聞四十一号 昭和二十四年十二月二十四日)