箱根清談

私が度々発表した箱根強羅に於ける地上天国の模型は、今や第一期完成に近づきつつある。此の模型を初めて見る人は何れも非常に愕くのである。否幾度も見た人と雖も暫く見ないうちに余りの変り方に眼を瞠らない者はないのである。

千人近く入る早雲閣は殆んど完成し、現在は庭園と茶席の造営中である。茶室の方は日本で一二といわるる木村清兵衛という、今年八十歳になる茶室専門の有名なる大工でその道の人は知らぬ者はない。その清兵衛老人が、一世一代のものを造るというのであるから見る人の中には出来上ったら関東一であろうという人もある。終戦後間もない二十一年春から計画したもので四年目の今年一杯で漸く出来上る予定である。

現在の日本が食糧難住宅難で苦しんでいる最中斯んな贅沢なものを造るとは甚だ怪しからんという人があるかも知れないが然し私は些かも贅沢の為ではない事で深い考えがあったからである。というのは私が何時もいう日本独特の建築美を世界に紹介しなければならない日の必ず来る事を予想したからである。

人も知る如く米国人などは日本の茶の湯に非常に関心をもっている。それに就て昭和二十一年の春、当時進駐していたスミス代将初め数人の高級幹部が茶の湯を是非見たいとの事で熱海の有力者が斡旋し、当時私の住んでいた熱海東山荘の茶室を提供した事があった。それ等の事も尠からず私の心の刺戟になったのである。

以上のような訳で、今度出来上る茶室は約廿五坪で、清兵衛も実に入念の仕事振りであるから、完成の暁は注目に価するものが出来るであろうと今から期待しているのである。無論外客の為に日本の茶道を紹介するのが目的であるから、有名なる茶道の某宗匠も大いに乗気になり、建築に就ての指示は勿論将来茶道を国際化する為努力する事の約束も、最近成立したのである。

次に庭園であるが、私の計画としては今迄にない新しい様式の庭園美を生み出すつもりで一木一草一石と雖も全部私の指図によって構成されつつあるのである。というのは今日迄の庭園は新時代の感覚には適合しない。先づ庭園といえば日本に於ては最初足利初期頃から創り、それが彼の豊臣時代小堀遠州公によって大成したので、それが今日も京都に相当残ってゐる。

次に徳川期に入って今も各地に残るお大名式庭園と、千の利休によって創められた茶庭の形式の二種である。又西洋風の庭園としては幾何学的花壇式のものであって之れも現代人の感覚にはピッタリ来ない憾みがある、而も建築の方は相当進歩の跡が見らるるに反し、庭園の方はよほど立後れの感があるのは否定し難い事実である。

以上の点に鑑み私は専門家ではないが、先づ神示とでもいはうか、一種の霊感によって造りつつあるのである。といふのは万事が奇蹟であると言ってもいい。例えば場所としては箱根第一ともいふべき景勝地が簡単に手に入いり、眺望地形歴史は勿論特に此地域に限り巨大なる奇巖怪石夥だしく、其在り所位置の好適さは固より、木でも草花でも必要なものは細大漏さず不思議に集ってくる。何等の心配も要らない、面白いように造園は出来てくる。勿論此庭園も茶室と相俟って外客の眼を楽しませ、日本美術の好さを理解させるといふ国策的の意味も含まれてゐるのである。

以上の意味の外期待する処のものは日本人の情操を高める事であり、平和的に優秀民族である事を顕示させると共に、忌はしき侵略国の汚名を一日も早く払拭するにあるは勿論であるが、今一つ企図する所は美による人心の教化である。成程教育も必要であり、宗教も道徳もなくてはならない存在であるが、それのみでは人間を向上させる事の困難である事は、今日迄の経験によって寔に明かである。従而私は今日迄殆んど試みられた事のない、美による人心教化を目的とした方針を以てするのである。

(光新聞十七号 昭和二十四年七月九日)