私が神様を拝まぬ理由

私は神様を拝んだ事がないのは、信者はよく知っているが、恐らく昔からあるどんな宗教の教祖でも、そういう例は絶対ないであろう。という訳で信者の中でも疑問に思う人もあるであろうから、茲にかいてみるが、元来私という者は、神格上からいって最高地位にあるので、私より上位の神様はこの世の中にないから、拝む訳にはゆかないのである。従って本当をいうと八百万の神悉くは、私の部下と見ていいのであるから、私は凡ゆる神仏を救う力を有っている以上、近来霊界に於ては私に縋って罪を赦さるべく謝罪すると共に、今後メシヤ教の仕事を手伝わして貰いたいと願望する神仏は、数知れずという位出て来るので私も出来るだけ救ってやりたいと思っている次第である。斯んな事をいうと神仏ともあらうものが、御詫びをする程の罪を犯すなど、到底信じられないという人もあろうが、それは斯ういう訳である。即ち夜の世界の間は本当の事が隠されている為、可いと思ってした事が、実は邪神のお手伝いをしていた事に気がついたので、それを知って慌て出した訳である。それは愈々審判の時が迫って来た事で、愚図々々してはおれないから、何とかして救って貰いたいと急にそうなったのである。そこへゆくと人間の方は現界だけしか見えないからウカウカしているが、仮にも神仏である以上、霊界の事は何でも見えるし、凡ての事は霊界が先になるからよく分るので、何等執着なく、右のような態度に出たのである。この事は最近本誌毎号載せている多賀夫人の霊憑りの通り、各宗の開祖、教祖の霊が、後から後から嘆願に出て来るにみても分るであろう。

又話は違うが本教の経綸にしても、私の思う通り凡てがスラスラと而も迅速に運んでゆく。之は改心した神仏の霊が主神の命によって、霊界で大いに活動しているからでもある。其の例として近来容易に手に入らないような、素晴しい仏像なども次々手に入る事で、之等もその宗祖、開祖や高僧達が、霊界で活動し、手柄を立てようとしているからである。その他仏教以外の美術品にしても、その作者や持主であった人達の霊が働いて、私の手に入るように仕向けるので結構とも思うが、茲に始末の悪い事がある。というのはそれ等の霊が世の中に生きていた時代は、経済観念などの必要がなかったが、今日は丸っきり違っている事に気付かず、只品物さへ運べばいいと思っているのであるから、現界人たる私はその為の金の支出も相当なものである。そこでいつも嬉しい悲鳴を上げている次第である。

次に私の神格の現れとしての今一つの事をかかねばならないが、知っての通り私の治病力の素晴しい事である。言う迄もなく光という一字を懐へ入れただけで、何千何万の人が救われると共に、何百何千里離れた処で、危険に見舞れた死の刹那でも、私を祈願すれば助かる奇蹟である。

そうして目下地上天国を造りつつある箱根、熱海にしても、今日迄の数々の奇蹟もそうだが、今度の京都の平安郷も最初の困難な条件を突破し、スラスラ短期間に手に入ったのを思い合せても、只々感嘆の外なく、而もその土地の位置といい、環境といい、京都第一という事が最近分ったので驚いている。勿論最初からそういう処を探したのではなく、全く自然にそうなったのである。というように神様は最初地球を造る時から、全世界隈なく救世教出現に対する準備をされた事で、之こそ一点の疑う余地はないのである。以上思いのままをかいてみたが、余りに自画自讃にすぎるので記き辛いが、そうかといって一応は知っておかねば、今後出て来る私の経綸の余りにドエライので、見当のつかない事もあろうと思うから、予め概念を得させようと茲にかいたのである。

(地上天国四十三号 昭和二十七年十二月二十五日)