病原と浄霊の原理

本教信者になって、御守を懐へ入れ、只手を振り翳しただけで、医者に見離された大病人でも、一生涯治らないと宣告された難病も長い間患って医療でも民間療法でも、信仰でも治らず、進退谷まって自殺を決心するようになった者でも、浄霊によって忽ち快復に向い、驚異的偉効を現わす此不思議さは、実地体験者でなくては分らないと共に之を目の辺り見た人達も、心境一変今日迄散々疑ったり、非難した事などが恥しくなったり、カチカチの無神論者も頭を下げ、兜を脱ぐという例は、数え切れない程あるのである。だからといって、此実際をいくら口で話した処で、仲々納得は出来ないもので、吾々は常に遺憾に思っているのであるが、そういう場合決って言う言葉は、そんな簡単な方法で難病が治るとしたら、医者も薬も要らないじゃないかというのであるが、全く仰言る通り、吾々からいえば医者も薬も要らない処か、寧ろない方がいいとさえ思うのである。之に就て其根本的理由を茲に詳しくかいてみるが、之は信者としても大いに知りおくべき事で、説明の必要上目下執筆中の文明の創造中の一文を、左に転載する事とする。

無機から有機へ
『前項に述べた如く、病気の本体は霊の曇りであるとしたら、それは如何なる訳かというに、本来黴菌なる生物は、此曇りから発生するのであって、今其順序を詳しくかいてみるが、前にも述べた如く初め透明体である人霊に、二様の原因によって不透明体の部分、即ち曇りが発生する。それが肉体に移写するや、時を経るに従って濃度化し、それに病菌が発生するのである。元来曇りなるものは大空を遮っている雲と等しく、水素の集合体であって、其曇りの濃度化が、或程度に達するや、自然に想像もつかない程の超微粒子が発生する。特に人間の体温という好条件が助長するからでもあるが、之こそ無から有を生ずるのである。此微粒子こそ実に言語に絶する程の無限微粒子であって、恰度天空の広さが無限大である様に、之は又反対の無限小であり、之が宇宙の真理であるとしたら、此事が分りさえすれば、黴菌発生の原理も自ら理解され得るのである。そうして右の如き無限微粒子が、先づ最初曇りに発生するや、漸次生育してゆき、或程度に達するや、個性的無数の微粒子が生れる。而も一つ一つが生命を有し運動性もあり、其時の本質は植物性といってもいい位の一種のバクテリアである。すると其バクテリアは時の進むに従って、漸次発育し動物化して了う。言い換えれば無機質が有機質化するのである。此有機質化した微粒子こそ、言わば黴菌の卵子であって、此卵子が漸次成育して、愈々最初の黴菌となるのである。然し此程度ではまだ顕微鏡では見る事は出来ないが、之が彼のヴィールスである。そうして最早生物となった黴菌は食物が必要となるので、互いに食い合いを始める。即ち弱肉強食という生物の自然原則で、人間社会に於ける生存競争と同様である。勿論黴菌群中にも強者が現われ、弱者は淘汰されつつ、強者は益々太るという訳で、此強者こそ顕微鏡で捕捉され得る生長した黴菌群であるから、私が常に言う如く、病原になった黴菌は、黴菌中の大きなものであるというのは此事である。右の如くであるとしたら、病気の根本原因こそ全く黴菌の発生源である無機質に等しい霊の曇りである事が分るであろう。従って此曇りを解消する事こそ、病気の発生を絶無ならしむる方法であって、之以外根本的病気解決の方法はあり得ないのである。処が現代医学は再三説明した通り、病原である曇りの発見処か忌憚なく言へば、幼稚極まるものといってもよかろう。』 (以上)

右によって病原の本体は認識されたであろうから、茲で愈々最後の浄霊の原理に就て説いてみるが、右の如く霊の曇りが決定的病原としたら、それを解消するより外に治病法はない訳である。然るに現代医学は黴菌を殺す事を以て、医療の本道としているのであるから、根本的ではなく末梢的でしかないのである。之に反し吾々の神霊医術は、黴菌に迄生育しない処の、霊の曇りを解消するのであるから、如何に徹底的であり効果的であるかが分るであろう。従って右の如き程度の低い現代医学を無上のものとして、国家は巨費を投じ、専門家は其進歩に頭を悩まし、人民は戦々兢々としている悲劇は、到底見てはおれないのである。

以上によってみても、黴菌の発生源である霊の曇りを解消し得る方法こそ、問題解決の鍵であって、それ以外絶対ない事を断言するのである。としたら曇りを解消する其方法こそ外でもない、今現に驚異的効果を挙げつつある本教浄霊法である。だから此浄霊法とは宗教でもあり、科学でもあり、有史以来未だ嘗てない不思議なものであるから、現代人にとっては頗る解り難いには違いないが、此論文を心を潜めて精読するとしたら、如何なる人でも理解出来ない筈はないのである。

そこで一体霊の曇りとは何であるかというと、其本質は水素であるが、単に水素といっても純なものと不純なものとがある。それで普通水素とは純なものを言うのであるが、曇りである水素とは不純物が含まれてをり、此不純物こそ病原である黴菌の先祖とも言うべき一種のバクテリアであるが、此バクテリアを消滅させる力こそ火素というものである。然し学問では水素は言うが、火素は余り言わないようであるが、然し水素があれば火素があるのは当然で、之が右の如く黴菌源を焼き尽すのであるから素晴しい力を有っている。そうして火素とは火の霊をいうのであるが、火素にも霊と体があって、普通火素とは体であり、之は只空気に熱を与へ、乾燥させるだけの力である。処が、黴菌源を焼尽すそれは特殊火素であるから、放射するや水素中の不純分子は忽ち分解し、毒分は消滅して了うのである。即ち浄霊法とは此火素の放射をいうのであるから、黴菌群の根源は絶たれ、純水素のみが残り、漿液として吸収されて了うのである。然し茲に注意すべきは、右は、有毒分子が少量の場合であって、多量の場合は喀痰、鼻汁、下痢、其他の固形的排泄物となって、体外へ出されるのである。そうして浄霊の形式としては患者の患部に向って掌を翳すが、此掌から特殊火素が発射されるのである。では何によって此特殊火素が施術者の掌から出るかというと、それは斯うである。

浄霊施術者となるには、本教信者となって私が半紙三倍大の紙へ、光の一字をかいたもので、それを小さく畳んで御守として懐へ入れるのである。只それだけの事で、掌から特殊火素が出るとしたら、人間の智慧などでは判りようがない神秘である。何となれば其文字から発する火素が、病気を治す力があるからで、実に不思議以上の不思議と言わずして何ぞやというべきであろう。之こそ、一点の誇張もない現実そのものであるから、如何な唯物主義者と雖も信じない訳にはゆかないのである。とすれば単なる文字からそのような霊妙不可思議な力が発せられるかを、徹底的に説明してみよう。

然し乍ら茲まで来ると、最早宗教的説明でなくては分り得ないので、無神論者には直ちに肯け難いであろうから、白紙となって読んで貰いたいのである。そうして此事は私は今迄も幾度となく書こうと思ってはいたが、余りに神秘的で、信者以外は到底理解出来ないから、反って迷信臭く思われ易いから、手を付けなかったが、今日は本教も私に対する社会の認識も、余程深まったようであるから、愈々書く事にしたのである。

それに就て私の事を書かねばならないが、抑々私という者は、世界の終末に際し、全人類を救い、病貧争絶無の地上天国を造るべく最高神の御経綸の下に、主脳者としての大任を負わされたのであるから、神は私に対して絶大な救いの力を与え給うたのである。其力というのは病貧争絶無の中心である処の病の解決であって、それに対する智識と力である。前者は私が今日迄解説して来た医学の誤謬や病理其他であり、後者は浄霊による治病の力である。即ち信者の懐に入れてある御守の文字と、私と霊線によって繋がれてをり、私から発揮する霊光は霊線を通じて、絶えず御守に至り、御守から施術者の肉体を通じて、掌から放射されるのである。一言にしていえば、御守所持者を仲介者として、私が間接に病人を治すのである。然らば其力の本源は一体何処にあるかというと、私の腹の中には、以前から知らしてある通り光の玉がある。此玉はそれまでは玉だけの力であったものが、昨年六月十五日、日本で昔から云われている処の麻邇(マニ)の玉、又は五百津美須麻留(イオツミスマル)の玉、又は如意宝珠の玉である。玉とは魂であるから、其魂が右の日時に、静岡県清水庵原署の留置所内で、天から降下され、宿られ給うたのである。此事は其当時簡単に発表しておいたが、之を私は結実と曰ったのである。それが段々育つに従って、玉の力も日に月に強力となりつつあるのである。之は其頃から浄霊の力が特に強化された事にみても、信者はよく分るであろう。

只現在其神様の御名前を詳しく曰う訳にはゆかないが、何れ時期が来たら発表するつもりである。然し釈尊、キリストをはじめ幾多の聖者の予言を、よく考えてみれば凡その見当がつく訳である。

(地上天国二十七号 昭和二十六年八月二十五日)