巻頭言

本教の発展は人も知る如くあまりに急速調で、息詰るような狭い島国日本の社会として何や彼や話題の中心にされるのである。全く毀誉褒貶(キヨホウヘン)の渦巻の中心に置かれてゐる現在であるのは又やむを得ない過渡期の現象であらう。喬木風多しの例えの通り、如何なる宗教と雖も或期間免れ得ない運命である事は、過去の宗教史に明かに記されてゐる。

そのような訳で、全国の新聞雑誌に本教の記事の載ってゐない日はないといってもいいとすればただ悪意によるとのみ観る事は出来得まい。というのは本教が外部へ向って余りにも急激な膨脹は、内部がそれに伴い得ないという怨みがあるのは止むを得ない処で、内容の充実を計る必要上、或程度膨脹の力を押へつけなければならないのは自明な理である。此意味によって神は、新聞雑誌や悪宣伝等の手を通じ発展を制え給うのであり、全く背後に於て神が操っておられる事を知るのである。

斯ういう事を言うと、巧妙な負惜しみとみる人があるかも知れないが、之は観点が違うからでまた止むを得ない処である。又如何なる事でも一挙に膨脹するものはない。必ず尺進寸退の形をとるもので、之が万有の因果律でもある。

(地上天国十一号 昭和二十四年十二月二十日)