善人の成功者

之は甚だ奇妙な標題であるが、ちょっと人の気のつかない事だからかいてみるのである。

抑々今日迄洋の東西を問はず、人類の耳をそばだてるような大きな事業から、小さいながらも一角成功した人達を検討してみると、少数の例外を除いてはその当事者は善人型は殆んどなく、全部といひたい程悪人型である。という事は実際上善人ではどうも成功し難い、悪人に負けるからである。事実他人の迷惑も社会に害毒を流す事など心に掛ける処か、巧みに法網をくぐって成功する輩が大多数であり彼等はそれ以外手段はないと思っているらしい。従而、成功者を見た場合誰しも浮ぶ事は、彼奴は酢でも菎蒻(コンニャク)でも喰えない奴に違いない、成功の蔭にはどうせ碌な事はしていまいという先入観が先に立つ、然しそれで間違いがないのだから致し方ない訳である。故に成功者たらんとする野心家は、それを見倣って目的の為には手段を選ばず式が利巧なやり方のやうに思い込んで、その通り実行するのだから堪らない。之が今日の社会悪の原因である。

以上の如き観方が現代人の頭にコビり着いてゐる結果、吾々をみる場合もそうである。

本教が三、四年の間に信徒三十万というのであるから、先づ成功者の部へ入れられる。そして前述の如き観念の色眼鏡を通してみるのだから仮令宗教などといっても、どうせ蔭では碌な事はしてゐまい。それだから成功したのだ。今の世の中に善のみで成功する筈はないと決めて了ふ。勿論一般人ばかりではない、当局さえも大なり小なり右の傾向があるのは吾等の邪推ばかりではあるまい。そこへ本教発展の為影響を蒙った者や、新宗教は虫が好かない唯物主義者や、断はられたユスリの犬糞的手段の投書密告や、悪質新聞のデマ等が重なり合って、当局の頭脳を困惑させ、責任上眼を光らす事もあるのである。

以上は、本教が世間から兎や角言はれる真相であるが、之は全く善の行による成功者が余りにないからで、それをよく物語ってゐる。従而此世の中は悪でなくては成功しないという誤れる観念を一掃し、正であり善であるこそ大成功者たり得るという模範を示さなくてはならないので、吾々も此意味からも奮励努力しつつあるのである。此生きた事実を社会に認識させるとしたら、如何に社会人心に善い感化を与えるかは勿論で、此事も、宗教本来の使命を達する所以と思ふのでもある。

(救五十四号 昭和二十五年三月十八日)