投書に就て

本教に対し、毀誉褒貶、種々雑多な投書が当路者又は大新聞社等に随分多数来るそうである。先日も某大新聞の記者が、多数の投書中から代表的なものといって持って来られ、その投書の箇条の一々を答弁して貰いたいといふので、よくみると、無名なので斯ういう無責任な投書の応答は意味がないと断ったが、それでも参考にしたいから話してくれというので、一々聞いてみた処あまりのナンセンスに噴飯所か、応答さえ出来ない始末である。此忙しい世の中に世間には閑人もあるものかと呆れざるを得なかった。それがため大新聞の記者まで動かし、熱海くんだりまで出張させ迷惑をかけるのであるから一種の罪悪である。

之を以てみると、斯ういう閑人は新聞社ばかりではない。宗教に関係ある取締り方面にも無論投書するであらう、然し、その投書家の意図は那辺にあるかを考えてみると、勿論本教発展によって影響を蒙った徒輩の、嫉視羨望や謀略的意図からであらう。

又、数ケ月前より頗る大規模なユスリの集団が、本教目がけて彼手此手を以て、相当知名の士までも動かし、多額の運動費を使い、凡ゆる手段をつくしたが、本教は頑として相手にしないのでどうする事も出来ないが、今以て諦めきれないとみえ、執拗に投書其他の方法を使い嫌がらせをやってゐる事も、各方面からの情報でよく判ってゐる。此様に本教を目標に、パリサイ人達が嫌がらせや妨害をするのは、何が為であるかというと、全く本教が前例のない急速の発展の為で、一面又やむを得ないといえない事もないのである。

特に、日本人現在の島国的根性の小人輩は元より政治家や指導階級、ジャーナリストに至る迄、正義感が乏しく利害と感情に支配され勝ちな人間が多いからでもあらう。真に品性の高い、俯仰天地に恥じない人格者は暁の星の如くである以上、日本再建も容易でない事を痛感するのである。

以上の如く正義を堅持する本教としては、不正者が如何に大仕掛の妨害手段を以て臨み来るとも、一歩も譲り得ないのである。如何に大新聞社であっても非を通そうとする限り断乎として応戦し其非を悟るまで鉾を収めない事を知って貰いたいのである。

宗教本来の使命が、善を勧め悪を懲し、明朗平和な社会を造るにありとすれば、善が悪に勝たねばならない事は言ふまでもない。又本教の方針が如何なるものであるかは、本教刊行の出版物に洩さず表示してある以上本教批判に当っては、出来るだけ読了して後、不審な点があれば、その質疑に来るべきである。といふのはよく本教に疑問を抱き質疑応答に来訪する人の殆んどは、全然本教の出版物などみてゐないからである。

(救世五十一号 昭和二十五年二月二十五日)