御神体奉斎に就いて

これは滅多にはないがどうかすると偶にはある事だから、ここに注意するのである。例えば最初妻君が入信し、熱心な余り主人や息子がまだ分らない内に、御神体をお祀りする。それを又いいとしている教師もあるが、これは大変な間違いである。いつかも言った通り一家中全部が信仰へ入るとか、そうでなければ相当理解が出来てから、快く御祀りするのが本当である。そうでなく一人でも反対者があるとしたら暫く時を待つべきであるが、何とかして早く入信させたい焦りから、御祀りするのであろうし、又そうすれば早く分ると思うからであるが、これは人間の考え方で神様の方は別である。つまりその人それぞれの罪の軽重、因縁、使命等によって、入信の時期も遅速があるから、総ては神様にお任せしていればいいのである。

それに就いて最近某中教会長が質ねた事は、会員の一人である、或る妻君が来ての話に、どうも主人が分らなすぎて困っていた処、最近或る晩の事泥酔して帰宅するや、何を思ったかイキナリ御神体を破り、神様に関したものは片っ端から放り出すので吃驚し、いくら歎願しても言う事を諾かなかったので、全く申訳のない事を致しました、何卒御無礼の段は御赦しをお願い致したく、明主様に御取次して頂きたいと申して来たので、如何致したら宜しいでしょうかとの事で、私はこう答えた。

それは私が常に言っている事を忘れたからで、一人でも反対者がある場合、決してお祀りしてはいけないと戒めている。それに気が附かないとしたら、つまり御神書の拝読が足りないからである。そこで何より心得べき事は、信仰の根本は本人の自由意志であって、止むに止まれぬ信仰心が湧くのが根本である。それを何でも彼んでも無理に分らせようとするから逆効果となり、反って入信の時が遅れるのである。これに就いて一番知らねばならない事は、世の中の事は二二が四ではいけない。二二が、六、二三が七というように、理外の理のある事を悟るべきで、特に信仰に於てをやである。つまり何事も結果によって判断すべきで、これが千変万化、融通無碍の観音行であるから、この理を充分肚の底へ畳み込んで活動すれば、必ず巧くゆく筈である。

(栄光二百五十五号 昭和二十九年四月七日)