正守護神の活動

左のお蔭話を解説してみるとこの第二の奇蹟中にある何物かが肩を押えた為助かったという一節こそ、正守護神の働きである。正守護神は人間と同様の形をしているので、そう感じたのである。処が正守護神は無信仰の人にも、どんな人にも附添っているものであるが、普通は力が弱い為思うように救えない。危機に際し敏速な活動や邪霊の迫害等に負けるからである。処が本教信者となるや、正守護神も神様の光に浴す事となるから強化され、咄嗟の場合自由無碍の働きが出来るのである。この理によって神様が直接救うのではない。救いの力を与えられた正守護神が救うのである。

奇蹟、神様に戴いた足

兵庫県 I・T

明主様、永い間筆舌に尽すことのできない有難い信仰生活にお導き頂きながら今日まで何の御礼も申し上げませず、延び延びになってしまいました事を深く反省し自責の念に堪えません。何卒お許し下さいます様伏してお願い申し上げます。

思い返しますに、昭和二三年の八月二八日に入信をお許し頂きました。その頃丁度国鉄K駅に連結手の代理として勤務致しておりました。あけて二四年三月二九日の夜八時過ぎのことでございます。貨物列車の解結を行うべく三、四人の駅手と共にまっ暗な線路伝いに作業に取り掛りました。丁度機関車が貨車を切り離すときに、連結器の止め金をテコ棒で引き上げて外すために、貨車について走っていた私は、枕木にけつまずいて「アッ」という間に横転致しました。一瞬、頭の中に電気のように考えが閃めきました。今でははっきりと思い出せませんが、右の方が低くなっていたと思います。右の方だ! という考えが閃いたと思います。しかし、これは決して自分の考えでない事ははっきりしております。「アッ」という瞬間、思慮するということは停止していたと思います。気が遠くなっておりました。その瞬間に右の方へ転がれば……という考えが湧いたのであります。後で色々と考えましたが、確かにこれは神様が私に知らせて下さったのに違いございません。私はもう当然汽車に轢かれているか、或は貨車の下に突出た鉄棒に服がひっかかって引っぱり込まれていたんだろうと思いますと、感謝の余り何と御礼申し上げてよいか分りません。明主様、本当に今日このように元気で毎日楽しく過させて頂きまして有難うございます。厚く御礼申し上げます。

その後、駅でトロッコのところにおきまして又大変な御守護を頂きました。一度に恐縮でございますが、御礼御報告申し上げさせて頂きます。

トロッコに乗って走っておりました。後に枕木を積んでいるのも知らずに飛び下りた瞬間、後から枕木の端で打倒され足が宙に浮いたと思った時、トロッコの車が転がって来ました。「アッ」もう足は引込まれたと思った。その瞬間、足は手前に引かれるように浮いてレールから遠ざかりました。そして二本の足は揃って目の前にあるではありませんか、自分の体についているではありませんか。ああもう切り落されたと思ったこの足が……本当だろうか、夢ではないかと暫らくの間気が変になりまして、平常の自分にかえることに一生懸命になった位でございました。立って見よう、立てる歩いてみよう、歩ける。やっぱり本当だ! そして歩きながらも又しては踏張ってみました。ひかれたと思ったこの足が、毎日の仕事に、通勤に、こうして何の苦もなく歩かせて頂く吾身を顧りみて嬉し涙が湧いて参ります。どうも有難うございました。御守護に対してその万分の一にもお報いさせて頂くことすらできない吾身を恥じるばかりでございます。そしてその前には、金を入れて本局に送る大きな箱を、駅の手引車に積んでプラットホームを歩いている途中、後に積んでいたので、フト気がついた時には線路の上に転がり込んでいるのであります。しまった! と思って見れば汽車は前方二〇米に迫っております。箱を取ろうとまさに線路に足をかけようとした瞬間、後の方から誰かが肩をぐっと押さえるように思いました。「はっ」と思い留まりまして箱だけの故障で終りました。帰ってお道紹介して下さったDさんにお話致しますと「神様がおさえて下さったのに違いありません」と申され、私はこうした危険なところをよくもこんなにお救いを頂く身の嬉しさに、心の奥深く決心させて頂きました。

明主様、有難うございました。

(栄光二百十八号 昭和二十八年七月二十二日)