今度本紙客員となった高見範雄氏は、私の旧知の人で、信仰上の造詣も深く、現在北国新聞に籍を置いている人であって、今度の氏の投稿を見て心が動き、客員を委嘱したのである。
地上天国建設譜
“世界救世教を訪ねて”
高見範雄
この一文を記すに当って阿部理事と私との関係について一言しておきたい。というのはほかでもないが、同理事とは文通上では二年越しの恋人であったのだ。それが今度はからずも同理事の配意により絶好の機会に恵まれ、突然であり、しかも短時間であったが、やっとの思いで二年越しの恋人である同理事とも初対面の光栄に浴し、また同氏の御手引で今や世界の恋人である教主様にも約一時間にわたり碧雲荘の応接間において特別御面会を許され、かてて加えて十国連山の一角に目下昼夜の別なく、地上天国の絵模様が唸るモーターの伴奏で高らかに建設譜を奏でられているのを日のあたり見、そして聞き、感激おくあたわず、ここにその感激を独占するを忍びず、駄文をとペンをとった次第である。
熱海駅前の世界救世教事務所に阿部理事を訪うと、折よく居合わされて先ず初対面の挨拶を述べるや間髪をいれず同氏は「教主様がお逢いになりますから……」と即座に車をよばれて一路碧雲荘に向う。
碧雲荘の応接間で一ぷく入れていると、工事現場の視察を終えられた教主様が着ながしのまま無雑作に入ってこられる。ここで私は阿部理事との神縁による結ばれたいきさつを申し上げると「ははー、さようで」から始まり教主様と同理事と私との三人鼎談はそれからそれへと飛躍して行く。日本の現状から世界の情勢、宗教あり、哲学あり、政治あり、経済あり、教育あり、芸術あり、医学ありで、その内容のいかに多く、また万般に亘りかくも権威ある「定見」を持たれた人にいまだかつて逢った事がない。只、なんと、なんと、と心の中で驚嘆これ久しゅうした次第だ。ここで公開を憚るものは一応オミットして、教主様が江戸弁で語られた大要は次の通りである。
救世教のモットーについて
第一に常識を重んずること、生活も行動も一般社会人と少しも変りがない。いかなる人とでも常に親和でそして円満であるべきこと。
病気治しについて
あまりに奇蹟が多く、これがために誤解されることもある。また高級宗教でないなどと聞かされもする。がしかし個人救済なくして地上天国の建設はできない。肉体的に精神的に個人救済のできる権力(神のちから)は救世教よりない。
救世教が昼の宗教であること
仏教本来の意義は夜の世界であって過渡期のものであった。今や時節到来昼の世界に転換しつつあるのである。仏教の月の神の守護は終り、日の神の守護となった。この日の神の守護は月の神の守護の六〇倍にあたる神力である。
教団の病院経営について
これなぞもってのほかだ。何故教団に病院の必要があるのか判らぬ。宗教本来の地位は科学より以上であるべきだ。これはその教団に何等の力のないことを如実に物語っている証拠である。人間を作ったのは神様であって科学の力ではない。にもかかわらず人間は神様に頼ろうとせず科学に頼ろうとする。これが根本的の間違いだ。人間を救う力が宗教よりも科学の方が勝れているとしたら、宗教は科学以下だ。
救世教は超宗教だ
私は常に民主的自由主義を標榜している。本教は歴史はじまって以来の救世の大業を実践躬行しているのみである。世界の人に「人生をたのしむ」ことを教えるのである。これすなわち神の恵みである。一切を包含して地上天国を建設する権力(神のちから)は本教のみだ。
平和会議ということ
いろんな形式で平和会議があちこちで開催されているが、有意義なことだと思っている。ただ問題は鉄のカーテン内の国にいささかの関連もない平和会議というものは、どういうものであろうか。こんなことで真の「平和」という目的が達せられるかという問題が残る。この問題の解決は世界救世教以外にない。
『アメリカを救う』の反響は
出版一カ月で軽く四万部を突破した。医学の盲点を徹底的に暴露してあるにもかかわらずいまだ一人の専門家からも何の反駁もない。
阿部理事より
救世教では専門医がもし要求して来るならば、それに応えて公開席上での公開実験も辞しませんよ。
再軍備問題について
問題は簡単ですよ。というのは日本に対して侵略する国が絶対にないという保証がつけば再軍備の必要はない。これがない限り国力に応じた再軍備は必要である。等等等。時間切迫で残念ながら窓外の紅梅の満開と彼岸桜の七分咲きに名残りを惜んで、救世会館建設中の工事現場へと急ぐ。
救世会館工事現場を見て
ここ瑞雲郷は十国連山の一角である桃山の所三万坪を開墾し、救世会館(間口二〇間、奥行六〇間)が世界にいまだない宗教様式の殿堂としてデビューするのだ。今や一〇〇人以上の奉仕者が懸命に七メートルのコンクリート杭(恐らく特別注文と思われる)をクレーンで吊し上げ、それを、トンの動力による特殊の打込み式でジャンジャン打ちこんでいる。ここから眺める遥か大島を眼下に見下すことのできる天下の絶景は素晴らしい。初島を庭石として海面に浮ぶ数々の島が丁度飛石のようで天然のこの広大なる庭園は天下の名園だ。その昔、唯単なる漁村に過ぎなかった熱海は面目を全く一新し天下の絶景にと時々刻々変りつつある。眼下に熱海の市街を一望でき、春夏秋冬を通じて山の変化、つまり梅林あり、桜あり、つつじあり、萩ありでその一木一草に教主の威光が燦然と輝いているのを見逃すわけには行かない。隣接の瑞泉郷(三万坪)が水を主材としてこれ亦近く着工されるとのことだが、ここの会館の模型から押して、この会館完成の上には熱海に新名所が一つ増える訳だ。楽に五〇〇〇人を収容するこの大殿堂は日本の一流芸能人による上演プログラムも既に腹案され、この山頂への教団直営によるバス運転も考えられていると聞いては、ただその手廻しのよさ、頭のよさ、そのスピードぶり唯々と恐れ入るほかない。
これでは完全に宗教としてでなく企業としてなりたつ。小林一三に一ぺん見せてやりたい。これ一重に教主の権力(神力)が古今絶大であることを物語るにこれぐらい立派な裏づけはあるまい。また中腹に三〇〇〇坪の美術館の敷地が整理されており、山頂に到る畳々たる石垣の山は大阪城を連想させずにおかぬ。とにかく一草一木に霊光燦然と輝き奉仕者の群れが喜々として地上天国建設作業に文字通り昼夜の別なく懸命に取組んでいる姿に目のあたり接していると、ボサッとしている私など全く恐れ多くなって退却せざるを得ない衝動にかられてしまう。更に瑞雲郷の計画を聞いて見てその着眼のよさに驚き入ってしまった。
夕闇迫るころ御案内の阿部理事とは別れたが、さて振り返って見ると、この世界救世教が一つも宗教くさくないこと。何処にも神殿らしいものがないことと教主を中心とした神機発動が今やまさしく日の出の勢いとなって日本国中はもちろん遠く海洋万里の波を蹴破って海外に飛躍しつつある現実は見逃してはならぬ。
私の決心
私はこの地上天国建設に参加さして頂くべく決心したのであるが、私の奉仕観念は私物一切を持合せた上でと思っているが、悲しい哉、私には財力がないのである。家族がある以上、生きて行かなくてはならぬ、同じ生きるのなら、教主を中心としたこの地上天国建設という、人生最大の目標に向って邁進して行きたいのである。家庭が住める家(四人家族)と最低生活の補償を願うのは無理だろうか。この私の決心が実現されることを私は信じて疑わぬ。
(栄光二百四号 昭和二十八年四月十五日)