先駆者の悩み

近頃よく言論機関やラヂオなどで、新宗教流行の為かは知れないが、学者、ジャーナリストなどの批判をみると、どうも本教を一番目標にしているらしいから、本教の言い分を少しかいてみようと思う。それに就いて一番困る事は、全然本教の真相を検討もせずして、単なる想像による自己判断でかいたり、言ったりするのであるから、無責任極まるといっていい。そんな訳で内容と来ては呆れる程見当違いが多く、吾々にとっては迷惑至極である。その中で特に本教を以て一般新宗教と同一に見てる事である。従ってその記事を読んでいる場合、他宗教の批判かと錯覚する事さえある。というのは常にいう通り本教は他の新宗教と根本的に異っており、同様な点は殆んどないといっていい位である。それのみか、昔からある如何なる宗教とも大いに異っており、其処に本教の本教たる価値があるのである。

これに就いて私の言いたい事は、今迄人の行ったと同じようなことをするのは私は好まないばかりか、それは余り必要がないと思うからである。処が歴史を見ても分る通り、その時代に於ける開拓者、又は先駆者の事績こそ尊むべく価値あるものと思うからであって、その人達こそ文化を推進させる動力といっていい。私が凡ゆる面に渉って創造的新機軸を出しているのもその意味に外ならないのである。とはいうものの凡ゆる既成文化もそれを改良し、より進歩させる必要もあるから、それに当る人も固より必要ではあるし、そういう人の数は非常に多いからいいようなものの、新しい発明発見や文化の飛躍に役立つ第一人者に至っては洵に少なく、恐らく一世紀中に数える程であろう。そうして不思議な事にはそういう人は例外なく一時は誤解の渦中に置かれ、非難の矢を放たれ、甚だしきは生命の危険に迄及ぶ者さえある。この理由こそ如何なる時代でも、進歩は虫が好かない保守頑迷な徒が多いからで、然もこの種の人が社会の枢軸を握っている事である。という訳で私なども昔から随分迫害、圧迫に堪えつつ進んで来たかは度々かいた通りである。現に終戦前などは、当局の無理解甚だしく、新宗教などというと特殊扱いをされ、手も足も出なかったものである。当時一番厄介な事は、兎もすれば不敬罪に問われる事である。現に彼の天理教々祖の十数回に及んだ投獄禍や、大本教々主出口王仁三郎氏、人の道教祖御木徳一氏なども、不敬罪が因で長い間の牢獄生活の苦しみは勿論、漸く出獄するや間もなく両氏共他界されたにみても、如何に苛酷な扱いを受けたかが察せられる。出口氏の如きは入牢七年に及び、出獄した時が七十歳を過ぎていたのである。処が幸いなる哉、世は民主主義となり、信教の自由も許されたので、私なども長い間の隠忍生活から漸く陽の目を見られるようになり、宗教活動が出来たのである。

話は前へ戻るが、最初かいたように、私の行る事は全部と言いたい程型破り的のものであるから、旧い頭の人や人並外れて気の小さい人から見ると、解らないのは当然かも知れない。寧ろ警戒する人さえある位である。一例として最近斯ういう事があった。それは“アメリカを救う”の本であるが、この広告を全部の大新聞に出そうとした処、その中の一社だけはどうしても応じない。よく訊いてみると“アノ本は余り飛躍した説なので危ぶみ応諾しなかった”にみても分るであろう。彼のコペルニクスやガリレオが唱えた地動説が、時の官憲から非常な弾圧を受け、遂に牢獄に投ぜられた事にみても、宗教や文化の先駆者が容易に容(イ)れられないのは東西を通じて揆を一にしている故に、これ等の丁髷頭がどれ程文化の進運を阻害しているかは、計り知れないものがあろう。その点アメリカだけは異っている。全然既成観念に捉われず、公平に見てその実績の結果が、従来のそれよりも優れたものなら直ちに採用する事であって、因習や伝統など全然無視する態度である。同国が今日の如き素晴しい発展を遂げたのはこの点に基因しているのは言う迄もない。現在アメリカの文化と比べて日本は三十年遅れているといわれるのもよくそれを物語っている。何よりも私の説は真理であるから、これを用いる事によって国家人民に対し、如何にプラスであるかは実行すれば直に分る筈である。只私の説は時代より余りに進み過ぎているのであるが、茲で遺憾に思う事は、遅れただけ多くの犠牲者が出るのであるから、結果からいえば、救わるべき人が救われない事になり、その結果彼等は善意の罪悪を侵す訳になろう。この点世のジャーナリスト諸君に考慮を求めたいのである。

(栄光二百二号 昭和二十八年四月一日)