結核が医療によって作られる経緯は、前項迄に詳しく記いたが、其原因は結核菌感染によるとは医学の定説となっているが、私の見解によれば此説こそ大変な誤りである。それは彼のパスツールの伝染説を医学は採用したからであろうが、私は其反対に自然発生である事を断言するのである。今それを詳しくかいてみるが、最初感冒の際、喀痰を肺臓内に固めた結果、時日を経るに従い、結核菌は痰中に自然に湧くのである。というのは如何なるものでも、不潔物には必ず微生虫が発生するのは物質の原則である。としたら痰は不潔物であり、而も体温という好条件も加わる以上腐敗もし、微生虫の湧くのは当然である。
処が医学の感染説であるが、此考え方は肺胞に菌が附着して繁殖し、空洞を作ったり、病竃(ビョウソウ)を作ると思っているのであろうが、若しそれが本当とすれば、無菌結核は何が原因であるかという事である。だが此答えは簡単である。即ち無菌結核とは前記の如く、肺臓内に固めた痰に菌が湧く程、時日が経っていないからである。と言うだけで分るであろう。それは兎に角として、結核菌は果して感染するものであるか否かは、理屈よりも事実で示す方が確実であろう。即ち私の多年の実験によっても明らかな如く、私は廿数年前結核非感染の原理を知ってから、先ず私自身を試験台とした。それは重症結核患者である一婦人の唾を、口移しにして試したのである。それから廿数年を経た今日、他の病気はしたが、結核的のものはした事がない。又私の家庭内には其頃当歳から十五、六歳迄の私の実子六人居たが、いつも二、三人の結核患者の女性を私は治療してやり乍ら、女中として同居させていた。其数今日迄で十数人に及んで廿年以上になるが、其間治って帰宅した者と、新規の者とが交替しつつ、現在でも二、三人は居るが、今日迄結核処か病気で寝る者すら一人もないのである。勿論最初から消毒などは一切せず、家族同様に扱っているのであって、右の六人の子供の内四人は既に結婚して、孫も数人出来ており、全部素晴しい健康である。又私の非感染説は、数十万の信徒にも教えており、信者は絶対に信じ其通り実行しているが、結核の治った話は数限りなく聞くが、感染した話など一人も聞いた事がない。としたら之以上確かな証拠はあるまい。故に万一今後一人でも感染する者があるとしたら、それこそ信ずべからざる一大奇蹟である。
併し医学が結核感染説を唱え出した事にも理由はある。例えば一家庭内で一人が結核で死亡したとする。其為後に残っている誰もは極度に結核を怖れると共に、医師の注意もあり、感染しないよう出来るだけ用心をする。それには何より風邪を引かないようにする事だが、万一風邪を引いた場合、早速医師に診て貰う。医師も亦結核死亡者のあった家は、疑いを有っているので特に注意し、入念に治療する。処が医療は結核製造法であるから、結局本物に仕立上げて了うので、其状態をみればどうしても感染としか思えないのである。処がそれを裏書する一事がある。というのは注意をする人程感染し易く、そうでない人程感染しない例で、之なども医師は常に経験する処であろう。其他の原因としては、結核で死んだ霊が兄弟や夫や妻などに憑依して、原因となる事も少なくないが、之は唯物思想の人には信じ難いから、此説明は省く事とする。
右のような訳で、医学は菌のみに囚われ、菌の感染を防止すると共に、殺菌方法が完成さえすれば、それで解決すると思う末梢的考え方で、之こそ根本に触れていない以上、治らないのは当然である。次に之を詳説してみよう。抑々菌と雖も偶然降って湧いたものではなく、湧くべき条件と、湧くべき物質があってこそ湧くのであるから、其点が明らかにならない限り、病気の本体は分る筈がないのである。という訳で現代医学の菌に対する解釈は、菌其物だけに囚われ、菌の発生源に迄遡っていないのであるから、幼稚極まるものであって、此様な学問程度で人間生命の神秘を探ろうなどとは無理であって、之で結核問題の解決など前途遼遠と言わねばならない。それが為幾億万の生霊が、無期限に徒らなる犠牲となるのであるから、実に由々しき大事件である。処が私は神示によって此真相を知った以上、一日も早く天下万民に知らせ、結核から解放させるべく、此著を以て警鐘の第一声とするのである。
(結核信仰療法 昭和二十七年十二月一日)